A diary 8/29

資本主義について。

 

第一義的な要素は、「権力者から、社会経済の主導権を引き剥がす(金に主導権を持たせる)」ことだと思います。

 

労働者目線では、社会経済上の権威を持っているのが「権力者→金」と移行するだけなので、この変化そのものにより自分の境遇が良くなるということはありません。

 

ただ、努力すれば金は増えるので、希望は増えるでしょう。

 

一方、権力者目線では、自らの社会経済上の権威を失うので、この変化そのものはあまり旨みはありません。

 

ただし、資本家という立場で、複利効果など、特権を得られる有利があり、不満はそこまで無かったでしょう。

 

労働者と、権力者、共にウインウイン状態を満たすことができたのが資本主義です。

 

資本主義は主に労働者にとって「希望を生む枠」としての価値がありました。

 

初歩の趣旨がそれなので、同時に「永続的に希望を生み出し続けなければいけない」という条件がかかっています。

 

そのために、「がんばって、経済成長し続けなくてはいけない」というハードな縛りがかかっています。

 

現状では、「お金の増や、資産の増」によって→「富の増」が達成されています。

 

しかし、「お金で買える富」は、もう飽きが来ています。食べ物、ベッド、洋服、パソコン・スマホ、各種嗜好品、それがあればもうほとんど人の物欲は満足されます。

 

今は「社会経済の主導権を金に持たせる」ことにより、人間が金に振り回されてぐったりしている、という状況ではないでしょうか。

 

「がんばって働いて、大して魅力の無い商品を手に入れる」ことに、人々が「希望を見いだせないから」、経済成長できない、といった具合です。

 

当初、権力者と労働者との間でウインウイン状態になっていたはずの資本主義は、実は同時に「すべての人にとっての負け構造」でもあるのです。

 

だって、主導権を人以外の「金」に持たせているのですから、人が「金」の奴隷になってひぃひぃ働くことも許容するということです。

 

私は、たかが「金」に従うのってマゾっぽいな、と思うので、「金主導」じゃなくて「人主導」にするのが良いと思います。

 

「人主導」にすると、また、権力者と労働者の間にあるような、権利の不平等が起こるんじゃないか、という懸念がありますが、

 

とりあえず、1回やってみたらどうでしょうか。

 

・初めての封建主義

・初めての封建主義→資本主義(自由主義)→封建主義ver.2

 

「初めての封建主義」と、「資本主義を経た後の封建主義ver.2」は、違う様相を呈すると思います。

 

同じことの繰り返しのようで、実はらせん階段のようになっているかもしれません。

 

だから、もう一回、専制国家のように、独裁者に振り回される政治体制に、日本も挑戦してみるのが、私は面白いと思います。

 

金に振り回される生活が、多くの人にとってそんなに面白いのであれば、まぁがんばればいいんじゃないかと思うのですが、少なくとも私にとっては関心を払うべき作業ではないな、と思います。