娯楽性日記 8/11

今回は「貧困救済計画」について。

 

私は、例えば貧困家庭があったら、そこに対して、「余っているコメ」とか「見栄えの良くない野菜」等の食料の支給をしたらいいのではないかと考えています。

 

その事業の運営主体は、市役所とか区役所とかだと規模的に無理なので、国営法人みたいな組織「フードバンク」を設立して、全国包括的に食料の支給を実施するというものです。

 

フードバンクって聞いたことがあるので、ググってみたら、もうこれ農林水産省がやってましたね。すでにあるじゃん!

 

算額は、よくわからないですが「令和4年度補正予算、3億円」と書いてありました。

 

うーん3億円だと、そんな大規模にできないですね。もっと大きい組織で、ダイナミックにやった方がいいと思います。

 

あと、現在あるフードバンクの趣旨は、貧困家庭保護というよりも、食品ロスの低減がメインみたいで、「じゃあ食品は貧困家庭にあげよう」みたいな感じのようです。

 

世の中のルールでは、統一教会問題のように「悪意ある組織等に、自分の生活基盤を破壊されても、誰も恨まずに黙って死ななければいけない」ルールがあるのでしょうか?

 

私はよくわかりませんが、とりあえず「金が無くて飢え死にしそう」な家庭は、すべて救った方がいいと思うので、今回のようなフードバンク(大規模)を推しています。

 

「なぜ貧困家庭をすべて救った方がいいのか?動機がない」

「自分と家族の生活守るので精一杯だから、他人が飢え死にしようがどうでもいい」

 

とかゆう意見もあると思いますが、私が救った方が良いとおもう理由は2つあります。

 

①無念の死は可哀想なので、救える命はできるだけ多く救ったほうがいい

②とにかくすべての人が「食うのに困って死ぬ」ことが無くなることによって、社会不安を減らし、チャレンジしやすい環境を作りたい

 

①の「可哀想」は、私の感想なので、弱い主張かもしれません。事実、私は全国のどこかの貧困家庭、例えば生活苦が原因で、小さい子供と一緒にマンション高層から飛び降り心中するような家庭に対して何も手を差し伸べず、見殺しにしています。

 

②については、目的が「活力ある社会環境を作りたい」というもので、これは普遍的な価値が認められるのではないかと思います。

 

私はかつて「将来食うのに困ってもかまわない」という捨て身の判断で、収入にならないけど本当にやりたいことにチャレンジしましたが、もしもフードバンクなどの利用で、飢え死にが永遠ほぼ100%避けられる保証があるのならば、もう少しゆとりをもってチャレンジできただろうなあと思います。

 

昨日書いた、資本主義のマネーゲームにしがみついてルール変更を極端に恐れている人って、つまり、「食えなくなるかも、家族を養えなくなるかも」という不安が元になっているんじゃないでしょうか。

 

でも、もし「食べ物には困らないよ」という保証があれば、「資本主義だけじゃなくて、社会全体の価値も追求しよう」という意識改革も、けっこうすんなり受け入れられるんじゃないかと思います。

 

そういう意味で、フードバンクは意義が大きく、もっと全国規模で展開すべき活動だと思います。

 

ただ、余ったコメとか、農作物とか、量には限界があるので、「すべての貧困家庭」の食料安全を担保することは難しいかもしれません。

 

足りない分は、寄付などの、他ルートで確保すればいいんじゃないかと思います。それも、税制のように「高給サラリーマン家庭」から給料天引きで強制徴収するのではなくて、あくまで任意で、クラウドファンディングみたいな仕組みで、寄付を募る、というやり方が私は好きです。

 

「生活に困ってる人がいる」「できれば助けたい」

→自分にとって無理のない範囲で寄付をする

→実際に貧困家庭が救われる

 

という当たり前の助け合いが、スムーズに、全国規模で実施できたら「いいなぁ~」と思い、これを推しています。

 

やってみたら問題もあるかもしれませんが、意外と簡単に貧困を解決できるかもしれません。

 

貧困を完全に解決は難しいでしょうが、少なくとも「過去よりはマシ」な状況を作り出せると思います。

 

それもひとつの経済成長です。資本主義のルールだけで、これが実施できるでしょうか?できないでしょう。だからこそ民間のマインドの変化が必要なのだと思います。