娯楽性日記 8/11その②

今回のテーマは「会話にならない」です。

 

私にとっての会話とは、「伝えたいことを、言葉で表現して、それを相手に伝えること」です。

 

この会話の定義は、わたしにとって当たり前のことなのですが、現実には、この会話はそれほどメジャーじゃない場合がありえます。

 

例えば、ツイッター(今はX?)上では、学者の方が「できるだけ正確な情報」を発信して、それに対してアンチの人たちが「誹謗中傷や揶揄をする」という絵図がよく見られていました。

 

学者の方は「この情報が正しい。あなたが言っているのはデマだ」というような、客観的な正しさを追求したり広めたりする目的で言葉を紡いでいます。

 

しかし、アンチの人はそれを妨害する目的で、「誹謗中傷したり」「デマを流したり」しているのです。

 

これで何が起こるかというと、ひとつのすれ違いが起きます。

 

アンチの人は学者の人に向けて「話しかけている」形式を取っていますが、実は、その会話のプロセスの中で「例えば自分の正当性を証明したり」する目的は無く、「学者の人を誹謗中傷した」「それが公になった」時点で、目的が完遂されているのだと思います。

 

一方学者の方は、律儀に、アンチの人に対して「あなたの発言は、事実に照らすと誤りです」とか「あなたような考え方は、社会倫理に反します」という趣旨の、「議論」であったり「説得」を試みるのです。日頃の仕事でやっているように。

 

アンチの人は、その主張が正しいかどうか、又は、自分の主張が正しいかどうか、にはハナから関心が無く、「相手に嫌な思いをさせる」ことや「公に誹謗中傷をして相手をおとしめる」に軸を置いているということです。

 

つまり、会話になっていないのです。同じ日本語を使い、交互に発言して(会話形式をとって)いたとしても、会話になっていないということはありえます。

 

こうして見ると、「会話形式を取っている背景の目的」の違いによって、すれ違い、会話になっていない会話形式が生まれるような気がします。

 

私はある意味律儀なので、その異なる目的も、会話形式の中で宣言しちゃえばいいじゃん、と思います。

 

誹謗中傷するときも「私は正しい考えが何かとか、事実とかはどうでもよくて、とにかくあなたを不快にさせたり、社会的地位をおとしめたりする目的なんですよ」と断りを入れてから、誹謗中傷する、というのがスムーズだと思います。

 

学者さんも「あぁ、それならこちらからは話すことはありません。裁判所に手続きして、しばらくしてそちらの自宅に訴状が届くと思います」と言えばいいでしょう。

 

これってスムーズじゃないでしょうか?なんでみんな言わないんだろう。

 

私の身近の例で言うと、父親と会話していて、なんか話がかみ合ってないな?と思うときがよくあるんですが、

 

その時は大体「父親が、私の言っていることの内容をわからないのに、わかったつもりになって勘違いして会話を進めている」とか「誤解して会話を進めている」場合が多いですね。

 

私の常識では、相手の言っていることがわからない時点で「それはわからないんだけど、どういうこと?」と認識の差のギャップを埋めようとします。

 

そのギャップがあるまま、会話形式を取っても、100%会話が成立しないことを知っているから、そうします。

 

父はそれを気にしていないということは、父にとっての「会話形式を取る目的」が、特殊なのかもしれませんね。

 

例えば「自分が気分がよくなる目的で会話形式を取る」とか。

 

私は会話形式は「情報伝達手段」としての目的がメインなので、とにかく正確に情報を伝えたり、価値観の違いを相互理解できたらいいなぁとか思っています。

 

目的がなんなのか言ってしまえばいいのになぁ。

 

例えば「本気の付き合いではなく、遊び目的でマッチングアプリであなたに声をかけました」

 

とか、あらかじめ目的を言った方がスムーズじゃないですか?

 

おわかりでしょうが、あえて、目的を隠す動機としては、やましいものがほとんどだということです。

 

有効な踏み絵は、気づけばあるものです。