娯楽性日記 8/6その③

ChatGPTを使って今日2回くらい日記を書きました。

 

出力された情報を、かいつまんで転記するのが疲れました。

 

もしもChatGPTの出した情報が、とても価値があるという保証でもあるならば、丁寧に、慇懃に扱わせて頂くところだが、実際の価値というのは「けっこうそれっぽい文章」だなぁと思っています。

 

それっぽいので、「それっぽさが求められる状況」であるならば、けっこう価値は高いと思います。誤りも含むケースがあるらしいですが、それも期間が経てばそのうち改善されるでしょう。

 

私のように、知の力で、例えば情報世界の大岩を牙突して、動かそうとか、そういう目的においては「それっぽい」だけでは無力なのですが、

 

そもそも人間の「知の力」って、潜在能力的に、たかが知れてるのかもな、と最近思っています。

 

「世の中そう決まってるから、そうなんだ」論法のへぼさはわかりやすいが、じゃあ、へぼくない論ってどんなのか、というとなかなか難しい問題があります。

 

もし基盤が固まっているのならば、正解でへぼくない論展開というのは十分可能になり、防御の意味で複雑性を伴ったりして、生き物のように成長していくでしょう。

 

しかし、この基盤というものが、究極的には「捉えられない」イコール、「無いと同じようなことになっている」んだと私は思っています。

 

私の今のスタンスとしては、基盤さえもインスタントの即席利用にして、足場を作るところから論を伸ばすことを、状況に応じて最適な出力をする、という仕様にしています。

 

これは、昆虫のハエのようなスピード、逃げ足の速さを実現しますが、これが正着であるという保証はまったくありません。それに、おそらく正着(終着点)ではないでしょう。「ハエのように逃げ足が速いね、というだけのことです」

 

私としては、「人間の身体の在り様」が、ひとつの解として出現している、と見なしています。(解とみなさなくてもいいんですけど)

 

その身体の在り様から、なんかグジャグジャして、「言論」が出てきました、と。

 

それ自体、ひとつの知である、という認識も可能だなと思っています。(知ではないとみなすこともできます)

 

だから、ただのあくびさえも、知的言論であると見ることができます。そうしたくない人はしなくても自由ですが。

 

私が、ダラダラと日記を書いているのも、そういう側面があるな、と思っているからです。客観的に見て、そのあくびのような文章を観察しています。

 

つまり、科学というものの価値は「知的に優れている」というよりも、「物質世界の改変能力がある(人の生きる環境を改善できる)」という点に依拠しているんじゃないかな、と思います。

 

確かに、あらゆる社会インフラの建設や維持は、科学技術があってこそで、その開発に携わってきた研究者の方には、感謝の気持ちがあります。ありがとうございます。

 

ただ、現在の局面で、その社会インフラの維持ができなくなってきている、さてどうするかという問題があります。

 

それに対して、「貧乏でも、生活が不便でも、活力を持って生きることはできるんじゃないの?」という疑問が湧いたりすることもあります。

 

これは、科学へのアンチというよりも、「科学を用いて改変してきた内容」に対してのアンチ、疑義だと思います。

 

「科学の使い方、これでいいの?」というのが現在私が持っている疑問です。

 

そんな高いビル、たくさん建てて、いいの?だいじょうぶなの?という素朴な疑問に対して、「説得力のある回答を返すことのできる科学」であってほしいなぁと感じています。

 

どっかのアラブの国が、数百キロの真っ直ぐな高層ビルみたいな建設構想があるそうですが、それって、そうしなきゃいけない理由があるんでしょうか。

 

私は、多少不便でも、満足に生きていけるなら、かまわないけどなぁと思います。