永遠と有限の時

例えば、「ずうっと(永遠に)幸せでいたい」、という願いがあったとき、

 

私とかは、「高望みしすぎじゃない?」と思うのですが、

 

実はこれって、「いつかは死ぬこと」を前提にしているからです。

 

「いつか死ぬから」「限られた有限の時をよく生きよう」

→「生き続けるためには、高望みしすぎるのは危険が伴うから避けよう」

 

という発想です。

 

まぁ、人間なので、あと数十年で確実に死ぬだろうと思っているので、普通の考えだなぁと自分でも思います。

 

しかし、実際に世の中で生きている人の中には、むしろ「永遠に存在すること」を前提にして、考えを積んでいる人の方が(驚くことに)多数派なんじゃないか?と思います。

 

死ぬ前提だから、死なないように抗おう、工夫しよう、場の理を見極めよう、低コスト体質になろう、という発想が生まれます。

 

一方、永遠に存在する前提であるならば、「ずうっと幸せ」という、比較的ハードルの高い目標設定になります。

 

「ささやかな幸せ」では、永遠には「やってられない」ってことですね。

 

永遠に存在するって(私にとっては)実は恐ろしいことで、

 

下手したら、例えば1億年間、さらにもっと長い時間、ずうっと苦しい・辛いが続くこともありうるということです。

 

現実にはそれはあるんでしょうけど、

 

もしも「死ぬ前提」であるならば、例えば苦しみ続けたとしても、1億年経ったら「死ねる(終りにできる)」という救済が生まれます。

 

「じゃあ1億年がんばろうか、耐えようか」という苦労を背負って前向きに生きられるのです。

 

で、私は、「永遠に存在する」ような造りにはなっていないそうなので、「永遠界隈」の常識では、私は「失格・不適合者」です。

 

「永遠さん」と「有限さん」の違いは、方法論にも現れるようです。

 

「有限さん」は、期間限定の苦しみを受け入れることができるので、基本的に「後手に回るのが普通」です。

 

何か問題が起こった、とか、将来危ないリスクがありそうだ、とかいう状況でも、

 

「う~ん、まあそのくらいのリスクは許容できるから受けて、もし何かあったらその時対応しようか」という余裕があります。

 

この対応方法は、「永遠さん」からすると、「失敗・対応ミス」になるようです。

 

そんなに負荷を背負った状態では、「ずうっと高水準で幸せ」の実現が妨げられるので、そうはしない。

 

正解は、「常に先手を打つ(しかも有効打を打つ)」となるようです。

 

つまり「永遠さん」は「常に先手を打って、有利を創り出し、ずうっと高水準の幸せを維持し続ける(永遠に)」という営みをしているようです。

 

ほほぅ、今の私とは大分違うな、と思いました。

 

ただ「有限さん」にも強みがあって、

 

「緊急事態の、めっちゃやばいとき」でも、パフォーマンスを落とさずに、闘い抜くことができます。

 

まぁ程度の限界はありますが、かなり無理が効くということです。

 

なぜなら、その無理は「期間限定だから」です。

 

よって、「有限さん」は、持っておくと非常に頼りになるカードになりうる。

 

だから、「失格・不適合者」である「有限な私」であっても、存在が許されているんだろうなぁと想像します。

 

「永遠さん」が「有限さん」を駒として利用するということですね。

 

で、人間くらいの能力の人が、「永遠さん」やるってのも、なかなかエキセントリックだなと思います。

 

50段くらいの階段を一歩で昇るくらいのジャンプですね。

 

私は、50段の階段は、一段一段、50歩で昇ることしかできませんし、ジャンプはしんどいしミスったら危ないのでしたくないです。

 

一歩一歩丁寧にやった方が楽しいですし。

 

「永遠界隈」のルールはシビアなので(永遠の負け組は死にたくなるほどきついでしょう)、そこに飛び込んで階段を大ジャンプするのは勇気があるなぁと思います。

 

こけて骨折しないことを祈っています。

 

おわり