行動-なかなか難しい問題

人間の評価は「行動」を見る、というのはひとつの定石だと思うのですが、

 

「行動」の扱いって難しいと思います。

 

千葉雅也さん著の「現代思想入門」の最初の方で、「人間ってまず行動が先んじるもの」という趣旨の記述がありました。

 

つまり、「行動」の是非を問う以前に、とりあえず今日食うためには、「良いのか悪いのかわからないけどとりあえず利を得られる行動」を取っていくしかない、という実務的な側面を言っているのだと思います。

 

私は、社会的な行動をほとんどしないで、日記を書いているだけです。

 

「その行動(日記書き)にこだわってるから」という理由もありますし、

 

「他の行動を取る気がしない」っていう理由もあります。

 

NPOなどの社会問題の解決行動とかにも、私は興味があるので、参加すればいいのでしょうけど、実際には「していません」。

 

例えば、「貧困家庭への支援物資を、倉庫で整理して、袋詰めする」という軽作業であっても、私の望む理想に近づきそうなアクションだと思うのですけど、

 

ネックになっているのは「それをすることによって、本当に理想に近づくのか?」という確信がないし、検証もできないので、やっていません。

 

「そこは、力点として、合っているのか?」の確証がないということですね。

 

つまり、「勝算がなければ行動しない」という厳格な自分ルールがあるのです。

 

「勝算なしに行動することが致命的になりうる」という現実認識に基づいているからです。(この認識が正しいかどうかという問題はありますが)

 

今書いてて、思ったのですが、まぁ支援物資の袋詰めボランティアなら、それに応じたささやかな勝算はあるなぁと思いました。

 

ただ、諸事情があって、やりません。やればいいんですけど、今はやれる状況じゃないので、やりませんという結論です。

 

とまぁ私の自己紹介はともかくとして、物質世界での「行動」って難しいんですよ。

 

「腹が減ってるから木になってるリンゴをもぎ取る」とか、

 

「普通じゃん」「そこに利があるなら手を伸ばすのが当たり前じゃん」と思う人は多いと思うのですけど、

 

そういう単純な世界では、無いと、「私は見ている」から、慎重になります。

 

「リンゴを1個もいで食べる」、それ1個限りなら、いいでしょう。リスクは矮小です。

 

しかし、「リンゴをもいで食べる」を是とすると、

 

「1年間で合計数百個のリンゴをもいで食べる」とか

 

「リンゴの木を多数植えて、栽培して、村人全員にリンゴを供給する」とか

 

行動の処理が走るじゃないですか。

 

そうなってくると、「ちょっと待てよ」ってなるのが、私にとっての普通です。

 

インパクトが大きくて、要検討扱いにしなきゃまずくなります。

 

まぁ毎日米とか食べてるんですが、食べたいから食べてる状態です。

 

あと、稲作がそんなにリスキーだとは思ってないので。何かしら食べなきゃいけないし。

 

リンゴは「利」全般の例えです。

 

生活するに絶対必要なものは、手に取りますが、

 

世の中には「生きるために別に無くても困らない利」がいっぱいありますよね。

 

娯楽とか、自己顕示欲を満たすものとか、戦争の収奪物とか、社会的地位とか。

 

そういうのって、行動起こす前に「ちょっと待てよ」の案件だと思うんです。

 

例えば受験戦争とか、

 

「良い大学に入れたら」→「経済的に恵まれる」っていう人工のルールがあって、

 

みんな一生懸命その利に手を伸ばしますよね。

 

でもその行動って、例えば

 

「木の歯車をグルグル回す労働したら」→「経済的に恵まれる」

 

っていうルールに置換もできちゃいます。

 

イノベーションを起こしたら」→「世界と自分が豊かになる」

 

みたいなのもそうですけど、

 

これに嵌まってしまうと、とにかくその「行動」を一生懸命やっちゃいますよね。

 

一生懸命やっちゃうと、「抜け出せなくなってしまう」んですよ。

 

「自分はこれを一生懸命身を粉にしてがんばった」

 

「それで利が得られた」

 

「この行動は正しい」

 

ってなっちゃうのが自然だと思います。

 

でも、時代が移って、環境が変化すると、

 

「木の歯車グルグルしても、何にも利が得られないよ」って状況は常にあり得ます。

 

イノベーション起こしたって、利幅が少なくて、払うコストに見合わないよ」

 

みたいなこと。

 

あり得るんですよね。普通に。

 

私は、「情報力でブイブイ言わすぜ」っていうゲームを一生懸命やってますけど、

 

最初から、「これが絶対的に正しい」とは思ってなかったし、今も思ってないです。

 

ただ、その時は「これをやるんだ」という意志決定をしたという事実があるというだけです。

 

よって、状況が変われば、「いつでも路線変更する気マンマンで」います。

 

その情報力全振り「実験」が、終わったら(今も実験経過中ですが)、おそらく路線変更すると思います。

 

これなら、あんまり問題はないんですけど、

 

「木の歯車グルグル」を一生懸命やって、そこに嵌まってしまうと、

 

状況が変わっても永遠に「木の歯車グルグルが正しいんだ!オレはグルグルするんだ!お前らもグルグルしろ!」っていう、意味不明な生命活動する生き物が誕生してしまいます。

 

だから、「生命維持のために絶対必要なこと」であるならば、永遠に(というか死ぬまで)グルグルしても差し支えないと思いますが、

 

別に重要じゃ無い社会欲を満たして利を得るための行動に関しては、

 

「木の歯車グルグル行動」に「嵌まりすぎない」方が良いと思いますね。

 

本人にとっても、周りにとっても。

 

ということを、ヤフーニュースで自民党の二階さんの和歌山県での過去の業績を見て、思いました。

 

二階さんだけじゃないですけど、

 

「それって、生きるために必要なの?」っていう立ち止まりをして、

 

もし必要不可欠じゃないのであれば、その行動パターンに嵌まりすぎないように、

 

「いずれ路線変更する見込み・算段」を持った上で、「やりたいならやる」のがいいと思います。

 

二階さんには「余計なお世話だ」と言われるかもしれませんが、

 

二階さんだけじゃなくて、すべての人に対して、ひとつのアイディア提示として、書きました。

 

参考にするかどうかは、ご自由になさってください。

 

おわり