Vチューバーというコンテンツ

私は、あんまりVチューバーの配信は見ないんですが、宝鐘マリンさんとか、面白いVチューバーの切り抜き動画とかはたまに見ています。

 

で、興味深いのは、あぁいった美少女系のアイコンで、記号として愛でている面ももちろんあると思いますが、ちゃんと、「中の人」のことも、みんな見ているんだなぁということです。

 

「ただ、可愛い」というだけではなく、中の人の心情の動きが表現されると、それもちゃんと楽しんで、コンテンツになっている。

 

これは一種の「人間愛」だなぁと思います。

 

ビジュアル半分、内面(キャラクター)半分の、「合わせ技」みたいな、

 

これってつまり、リアルの人間でも同じ事であって、

 

Vチューバーを見ている人はみんな「良い人付き合いがしたい」願望を持っているのだと気づき、この点は健全だな、と思いました。

 

「人間関係は全部切り捨てる、そんなのはどうでもいい」みたいな発想ではない、という点で健全だという意味です。

 

ただし、「可愛くて」「キャラクターもいい」Vチューバーが人気だということは、

 

それはつまり「外見が美しくなくて」「性格の悪い」ことが、忌み嫌われているというわけであり、

 

そういう物差しで、人間を評価し、測っているというのは、本能に従順すぎるな、という印象を持ちます。

 

「外見が美しくなくて」「性格の悪い」人(あるいはそういう自分)を卑下しない方法というのは、

 

簡単に言うと、その対象を「消費しようと思わない」ことにあるんですよね。

 

相手を、「美味しいリンゴのなる木」だと見なさない、それを期待しないということです。

 

かくゆう私も、ツイッターを眺めているときは「何か変な面白いこと言ってる人いないかなー」と探しています。

 

そういう「変な面白いことを言う」「個性が強い人」の模型を頭にインプットすると実用性があるし、単純に好奇心も満たされるからです。

 

これも一種の「消費」であり、あんまり褒められたものではありません。

 

なので、「あんまり興味が湧かない人」のツイートも、できるだけ読んでみて、「ふむふむなるほどー」と相づちをうったりしています。

 

「自分が興味がわかない相手だとしても」「その人の存在を否定する理由にはならない」からです。

 

大体、不幸の原因は「期待しすぎ」にあるのですから、

 

自分が会う相手、見る相手に対して「消費させてくれ~」と期待するのではなく、「あるがまま、存在していることを尊重する」ような心でいると

 

不満が溜まりにくいでしょうね。