A diary 8/23その②

自然とは。

 

「簡単な理があり」「でっかい」

そして「私と同一体」ということです。

 

この自然に対応しているようでは、複雑な上に、人間の知覚能力では捉えきれない構造を持つリアル理には対応できず、不正解になります。

 

ただ、自然の理は、模型のパーツとしてはちゃんとしているので、子供にとっての玩具のように、初歩的な遊び・練習として扱うのはいいかもしれません。

 

自然がやっかいなのは、でかすぎる、という点にあります。

 

圧倒的に巨大な相手と対峙する際には、まず先手は取れません。

 

常に後手に回った上で、「つまり自然の動きを受け入れた上で」時間軸で先回りする「後の先」を取るしかありません。

 

しかし、世の中の人が、みな「後の先」を取りに行く必要はありません。そもそも自然界と対峙しようと思って生きている人は一部の少ない人だからです。

 

自然界なんて、人が消費する資源が取れて、景色が綺麗で、災害をもたらす「不可抗力」の塊なのだから、それに気を配っても仕方ない、それよりも自分が操作・支配できる範囲のことを「世界のすべて」だと認識して、対峙した方が実効性があるし、楽しいという人が多数派だと思います。

 

なのですが、知識として、「自然界と対峙すると、後手に回らざるを得ない」ということは知っておいて損はありません。

 

究極的に言うと、自然と一体化するとは、死体になるということです。対自然界においては、これが最も安全な状態です。

 

ただ、安全なだけではつまらないし、死んだら本末転倒という都合もあるので、私はひたすら後手に回ってなおかつ負けない、という技を磨きました。

 

この自然界との対峙は、ひとつの世界観にすぎず、私の父親なんかも、あるいは他の大勢の人も、自然界に生きる世界観よりも、もっと信仰心を持ってのめり込めるような別の世界観に浸っているようです。

 

私は、とりあえず自然界を疑うことができないので、この世界観を大事にしています。

 

もっと複雑な理にも対応できた方がいいんですけど、「複雑」は守り以外の意味がないので、もっとどぎつい攻撃を受けて嫌になったら複雑な理を身につけようと思っています。

 

「シンプル」は、楽しいとか、強いとか、いろいろメリットがあるのですが、いかんせん守りが弱いです。だからこそ、生命の生態系とかもけっこう複雑です。

 

守りすぎると、つまり、攻撃に対応しすぎると、余計なことをやる必要がでてきて、例でいうと「ミャンマーの軍事政権」みたいになるんですよね。

 

そんなに市民弾圧して守る必要が無いのに、「そういう敵(反政府勢力)からのそういう攻撃」に対応して、贔屓のお客さんにすると「あんたら、何無意味なことやってんの?」状態になります。

 

それが嫌だから、できれば守りたくないのですが、実際に攻撃を受けてトラウマにでもなっている人からすれば、そうしないと安心できないようで、それはそれで仕方ないし、なるようになっているんだなと思います。

 

ただ、基本的には、妙なことして良いことってあんまりないので、シンプルに、真球に近い形でいた方がいいと思います。