中国の経済

今、中国の経済はどうなってるんでしょうか。ググって調べてみました。

 

「中国の高度経済成長、予想より早く終わる可能性」(記事著:瀬口清之氏)

<要約>

中国は1989年の天安門事件後、経済統制が強まったが、1992年以降は計画経済体制から脱却する構造改革へ着手し、以降30年間高度成長を維持した。高度経済成長を「実質成長率の平均が5%以上」と仮に定義した場合、中国の高度経済成長は2020年を境にすでに終わっていると言える。もしも2020年以降の低成長が、短期的な要因のみによって起こっているならば、再び5%以上の成長に戻る可能性はある。短期的な要因としては2つ「ゼロコロナ政策の有効性低下と経済への悪影響」「若年層の失業率の増大」がある。これ以外にも、現状の中国経済に影響を与えている中期的な要因も挙げることができる。「少子高齢化の加速」「(人口伸び率の低下による)都市化のスローダウン」「大規模インフラ建設投資の減少」「不動産市場停滞の長期化」「米中対立の長期化」「期待成長率の下方屈折」「国営企業の業績悪化への補填による中央・地方財政の悪化」である。他方、経済の下支え要因は以下がある。「外資企業の対中投資拡大の持続」「中国企業の国際競争力の増大」「アジア域内の発展途上国との経済交流の増加」「大規模な不良債権問題(主に不動産)の回避」

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なるほど~なんとなくわかりました。

 

これを踏まえて、中国経済のポイントは、以下だな、と思いました。

・経済過熱による投機的な働きを警戒し、防いでいる

一人っ子政策のツケ~高齢化社会へ突入

中国企業の競争力がどのくらいか

・中米戦争するのかしないのか

・財政悪化に対して切れるカードがどれだけあるか

 

中国は、アメリカと違って、市民が経済的に力を持つことを拒否しているので、ザ・資本主義みたいな展開にはならない、ある意味前例のない未踏のチャレンジを強いられる形になっていると思います。

 

すべて丸っと言えば、どれだけ中国政府が「国民の性質をコントロールできるか」にかかっていると思います。

 

おそらくですが、上記のポイントを見る限り、危機的な財政悪化というのは避けられないでしょう。これに対し、当然政府は強権的なカードを切るだろうと予想できますが、そのカードに対して国民が持ちこたえられるだけの「性質」を有しているか、というのが最重要ポイントになると思います。

 

もしも中国が高齢化問題を受け流すことができたら、かなり明確な晴れ間が見えてきて、私の希望の本丸、超監視社会の実現が現実味を帯びてくるでしょう。

 

あとは、米中戦争ですね。これがあると、すべてがぶっ壊れる可能性があるので、是非止めて欲しいです。中国だけでなく、世界が損害を負います。世界が損害を受けて困らないのは、世界が損害を受けて困らない人たちだけです。(当たり前)だからそういう動きがあるならきっちりソフトパワーでカウンターを当てるのが良いでしょう。

 

台湾は中国を拒否するのではなく、中国の傘の下で、文化を守る努力をするのが良いと思いますが、いろいろコンプレックスな問題があってできないんでしょう。

 

私の案の方が人死にが出るよりマシだと思います。

 

 

理想的な生活

私は、10代の頃、読書などで得られる知識をシャットアウトして、私がすでに持っていた「子供目線の常識的な知識」を素材にして、それらを組み合わせる方法のみで、情報を増やしていく、という培養型情報収集の戦略を取っていました。

 

これによって、普通に生きてたらやらないような頭の使い方を局所的に鍛えることができました。やる気を持って楽しく打ち込んでいました。

 

で、それはそれで成果として良いんですが、もう一つの狙いとしては、自分を実験の「被検体」とみたした場合に、情報を余り与えないことで、その実験的価値を高めるというものがありました。

 

カントとか、相対性理論とか、今も詳細はよくわかりませんが、それをちゃんとインプットしてしまうと、人間は自力でどこまでできるのか、の極限の値を探ることができなくなってしまうからです。

 

他力と自力合わせて、すごく能力上がりました、成果も出せるようになりました、というのは社会的に価値はありますが、「そもそも人間ごときのパフォーマンスなんてたかが知れてるわ」と判断していた私は、「人間1個のポテンシャルの極限はどのくらいか」をある程度高い精度で測定することを目標にしました。

 

この人間1個の潜在能力や、あと耐久能力、これらの情報が揃うと、じゃあ社会としてどのようなデザインが可能か、という意思決定が初めて成立することになります。

 

みんなスーパーマンじゃないんだから無理なことは無理だし、現実的に適切な目標なり指針なりを決める際には、人間1個の性能テストというのは欠かせません。

 

で、私を実験体にして、だいたいわかったんですが、いざ社会を見渡してみると、「そもそも負荷を受けて耐久したくない派」の人が多数だし、社会的立場が上の人たちは、その全国平均を遥かに上回る能力を「賽の河原の運営・維持」につぎ込んでる状況で、私の実験結果の需要が無いという事態になっています。

 

じゃあいいよ、別に頼まれてやってるわけじゃないし、自分で勝手にやってたことだから、と諦めて、理想的な生活について考えてみました。

 

私のように、情報を絞っておくと、年をとっても知らないことがたくさんある、という情報市場における「供給>需要」の構図が発生します。安価で、重要な情報に触れやすい、お得な状態ということです。

 

まだ多分10年くらい生きられるので、とりあえず数学・プログラミングを習得して、残った数年で、遺伝子とかの分野を学ぼうかなと思っています。

 

このように、自分本位の需要と供給のバランスを考えてみると、理想の生活に近づけるなぁと思います。

 

今は、科学技術が発達しているので、それについては乱暴に言うと、学べば誰でも使えます。なので、そのアドバンテージを利用して、まずはあえて不便な、自然に近い原始的な生活をしてみる。

 

昔の農耕生活では、天候や疫病や虫害で、作物が不作で死ぬ、ということも少なくなかったようですが、私の言っている理想的な生活では、それを農薬、設備等で鉄壁ガードします。(お金はかかりますが)

 

めっちゃ安定した、昔ながらの農耕生活というわけです。毎日体を動かして働くのは気持ちが良さそうです。

 

で、しばらくそういう生活してみて、「冷蔵庫欲しいな」となったら、情報ポータルサイトにアクセスして「冷蔵庫の作り方・部品一覧」みたいなページを開いて、自分で情報と材料集めて冷蔵庫つくっちゃう。これは楽しそうだし、完成した時の達成感あるだろうなと思います。

 

このように、文明の利器はいつでも入手できるけど、あえてそれを絞って(制限して)、ひとつひとつの問題解決に喜びを得るような生活が、「私は」好きだし、やってみたいと思います。

 

これをやるとね、おそらくですが、現代の閉塞感を打ち破るアイディアが棚からぼたもち式に出てくると思うんですよね。初心に帰って見ると、今の景色が違って見える。これはなかなか高い確信があります。

 

こういう実験的な生活は、一部地域だけに限定してやることは可能だと思うんです。もし私がイーロンマスクさんくらいのお金があれば、ツイッターを買収しないで、ロケットも火星に飛ばさないで、実験地域を作って被験者募って面白い生活を実験してみたいと思います。

 

トヨタはそういう街を作ってるみたいな話を聞いたことがあります。なんか自動運転自動車がはびこってる街みたいですが、もし実験するなら、いきなり現実的なゴールを目指すんじゃなくて、「これって面白いんじゃない?基準」での実験に徹した方が良いでしょう。

 

だれか500億円くらいくれないかなぁ。

 

 

going on マテマテクス

「数学A」の楽しい確率の範囲が終わり、図形の範囲に入りました。

 

図形は数式問題よりもっと苦手なので、スピードがグッとダウンしました。

 

同じ辺や角を持ってる2つ以上の異なる三角形を同時に頭に入れないと、なかなか問題が解けないのですが、私はランダムアクセスメモリが小さいので苦労しています。

 

当然ながら問題を解くときは作図して、ウンウンうなっています。この作図も、割とちゃんと正確に書かないとおかしなことになるので、時間がかかります。

 

三角形の合同とか相似とか、あと三角関数も、日常生活では要らないみたいな声を目にしたことがありますが、これってけっこう便利なんじゃないかと私は思います。

 

だって、工場で部品を作るときとか、金型でプレスするときとか、図形の角度と辺の問題が解けないとできないし、DIYで工作するときも役に立つと思います。あと家を作るときとかも、絶対要るでしょう。

 

私が学生だったら、図形問題は絶対履修範囲に入れて欲しい、と希望すると思います。学生のときは勉強しなかったけど今ならそう思います。

 

図形の苦手意識が、数学の全体の苦手意識のシェアを占めてる部分が大きいので、なんとか克服して、得意になって、ポジティブに勉強を進めようと思います。

 

ゆっくりでも継続は力なり。

葉隠~覚の士、不覚の士

noteの人文学カテゴリの記事に「先見の明」とタイトルがあったので、ようし見てみようと思ってページを開いてみたら、葉隠の一節の解説コラムでした。

 

解説によると、道理をわきまえ未来予測ができるのが「覚の士」で、行き当たりばったりなのが「不覚の士」。

 

実例では、1833年頃、二宮尊徳が農業改革に取り組んでいるときに、二宮担当の村のナスをふと口にしてみると、夏にも関わらず秋ナスの味がした。その機微から、二宮は将来の飢饉の気配を察知し、村人にある割合で稗(ひえ)の種を追加で蒔くことを命じた。その後、予想通りに大飢饉に見舞われ、周辺の村ではたくさんの餓死者を出したが、二宮の担当する村は一人も死者はでなかった、そうな。

 

なぁんだ、私が日記で「未来予測大事だよ!リスクは必ず減らそう!」とか言ってる200年くらいの前から、ゆってる人いるじゃん。しかも日本人で、ご丁寧に実例付きで。

 

日本に限らず、人間って、カントの後にも哲学界はカント無視するし、ニノが実践して見せてるのに学校で未来予測を教えないし、不思議だなぁと思いますね。失敗に淫してるんでしょうか。

 

例えば国際金融資本が変な命令してきたって、国際金融資本も合理的にしか動いてないんですよ。それは彼らなりの合理性であって、きちんとしたものでもないかもしれませんが。どんな強者でも、理を無視したら簡単に滅びます。

 

私は、サボってたネット麻雀を今日やってみたのですが、ジワジワ上達してる感じがします。嫌になってサボってた理由は「たとえ勝っても、その理由がわからないから」です。わけもわからず勝って、わけもわからず負けて、一体私は何をしているんだろう?という無重力状態でふわふわしてしまったので、嫌になったんですが、

 

今日はちゃんと「自分の打ち方の戦略みたいなもの」を、ちゃんと自分が納得してから(合理性を見出してから)実践するようにしました。

 

で、10戦くらいやってまぁまぁ勝ち越せました。これが嬉しいです。何で勝ったのか、何で負けたのか、完全じゃなくても見えてきたから「麻雀やってる感」を実感できたからです。

 

でもまぁ、わけもわからず失敗しても特にその人を責める必要は無いんですけど、100人中70人が「不覚の士」だと、勝ち目が薄いな、という杞憂があります。

 

50人くらい「覚の士」が欲しいですね。バランスをちょちょっと操作するだけだから、そんなに深刻な問題じゃないですよ。

 

 

言葉を紡ぐ動機

私は、まず自分や環境の状況を確認してから、困ることが見つかって、初めて行動に移すという、腰の重いスタイルです。

 

行動力は全然ないし、料理はある程度できるんですが、例えば野山に放置されて、雨風を防いで暖を取って、食料を調達するみたいな事も、「どうすればいいんだろう・・・」とノロノロやって日暮れまでに間に合わない、みたいなことになると思います。

 

なので、行動力・実行力がある人を見ると、すごいな、と思います。行動力が無い事に良い部分があるとすればそれは、行動によるリスク、失敗して害を受けることのリスクだけではなく、成功や失敗に関わらず、「何らかの行動をしたことによる副次的な波及効果についてのリスク」からは無縁なので、安心です。

 

以前言った、「自分が何をやっているのかを正しく把握する」という行為も、より広い視点から見たときの、行動による直接的な効果+副次的な効果を、もれなく把握する、という意味です。これができる人間は、かなり強いです。私はまだ未熟です。

 

私は日記で何をやっているのかというと、「意思決定の在り方」とか「未来予測」とかを捨て身で全力で取り組んできた人間の目から世界がどう見えているのか、を報告しているということです。

 

これって、例えば、森の中で道が左右に分かれていて、どっちが正解の道かわからないときに、私が「じゃあオレ右の方に行ってくる!」と行って、ダッシュして「右の方はこんな感じになってたよ!」と報告の連絡をするようなことで、まぁまぁ意味はあると思います。

 

「周りのみんなと同じ方向に一緒に付いていくだけだから、そもそもどっちに進むか判断する機会がないから、そんな報告あんまり価値ないよ」という人もいると思いますが、まぁそれはそれであり得るだろうな、と思います。その場合は、私の言ってることはスルーでいいでしょう。

 

私は、できればフィールドを全て網羅したい(どんなに広い世界でもできれば時間かけて全て確認したい)という願望があるので、変な考えを持っている人(人気のない辺境の土地)からの報告を見てみたいと日々思っています。それでツイッターとかもやっています。

 

ツイッターを見ていると、言葉には次の3要素を含んでいると感じます。自己満足や不安解消のための「消費的」、情報交換のための「報告的」、対象を操作するための「支配的」の3つ。

 

これらは、すべての言葉の中に含まれている感じで、純粋な消費的言葉や、純粋な報告的な言葉などは探すのが難しいと思います。ロボットみたいな機械的なプロセスを経ないと、純粋な言葉は無理そうです。

 

人間の言う事は、基本的に依存するに値しませんが、例えば消費したいなら、言葉のそういう側面だけ見る、とか、支配されたくないなら、その要素だけフィルターをかけてシャットアウトする、とか受け取る側が工夫すれば、人間の言葉をたくさん受け取ってもいいと思います。「ある言葉の支配的な要素をフィルターで除いたら、何も意味が残らなかった」とかいうことはありますが。

 

私は辺境からの報告を望んでいます。なので自分も報告をします。こういう文化が広まってくれたら嬉しいです。

イスラム教について調べてみた

イスラム教への侮蔑を含んだ小説「悪魔の詩」の著者である、サルマン・ラシュディさんがニューヨークで「芸術の自由」をテーマに講演する直前、ヘイディ・マタール容疑者に首や腹を刃物で刺され、重傷を負った(8/13)ニュースを見ました。痛そうですね。

 

イスラム教をウィキペディアで調べてみたら、ユダヤ教キリスト教イスラム教は共に「アブラハムの宗教」からの派生らしいです。

 

イスラム教は、「唯一神アッラー)がいて、人間の預言者ムハンマドがいて、たくさんの普通の人間がいて、最後の審判で、地球が終わった後みんなが天国にいくか地獄にいくかを裁かれる」みたいな仕組みのようです。

 

一方、キリスト教は「イエス・キリスト」を神の子として扱い、「父なる神」「神の子イエス」「人々に注がれる聖霊」の3つをもって神の柱とする「三位一体」の考えで、イエスも神として信仰する。イスラム教の方は、預言者ムハンマドは信仰の対象ではない。その辺がキリスト教イスラム教の相違点です。

 

最後の審判は、キリスト教ユダヤ教イスラム教も共通していて、この3兄弟が、それぞれ跡目争いをしているような状況のようです。

 

最後の審判」というのはよくわからない(最後の審判の日以前に死んだ人は、どのような扱いになるのかが不明)ので、コトバンクで調べてみると

 

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イスラム教において、最後の審判の日には、天変地異を伴い、すべての人々やジン(鬼神)が審判の座の前に召集され、各人の言行が秤で量られ、「嘉(よみ)された者」には右手に、「永劫の罰を受ける者」は左手に、それぞれ生前の行為が記された書が手渡されるという。(※「嘉(よみ)される」は、「褒めたたえられる」の意味)

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イスラム教でも、すべての人間はいったん死んだ後に復活し、各自の首にかけられた善業と悪業を記録した二つの帳簿の重さに従い、悪業の帳簿の重い者は地獄の上にかかる橋から落下するとしている。

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なるほど~最後の審判までに、死んだ人間はみんな復活して大招集かけられるんですね。

 

これを見ると、イスラム教は「人生が辛くても、神を信じて、善い事して天国にいこうぜ!」という倫理的な価値を持っているんだなと思います。

 

イスラム教信者からすると、何教を信じていようと、(イスラム教の)最後の審判の前ではみんな平等なんだから、イスラム教以外を信じてるやつは頭のネジが外れたいかれポンチだと思っているんでしょう。

 

宗教の価値とは、前述した「倫理的な価値」だけではなく、「他の間違ったバカを叩きのめすことが善行になる(ジハード)」という「暴力の肯定」も含んでいるということですね。

 

だって・・・「生きてて辛いことあったら、暴力使いたいじゃん」「暴力使っても天国に行きたいじゃん」という人間は、一生懸命「イスラム教を信じてると言う」でしょう。その人が最後の審判でどのように裁かれるのかは「神のみぞ知る」です。さぁ、どうなるでしょうか?私は知りません。

 

今回襲われたラシュディさんは、イスラム教を否定するのではなく、イスラム教を都合の良いように解釈してる一部のイスラム教徒を否定するべきでしたね。もしイスラム教が破壊されたら、それを信じることによってギリギリ保っている体制などが、空中分解する懸念があります。

 

私も神について言及することはありますが、それは私が想定する神であって、「アッラーは〇〇」とかいう言い方はしないですね。ちなみに私の神は「人間に関心がなく、大きな力を恐れている」ような存在です。探せばどこかにいるんじゃないかと思います。

 

ラシュディさんは、他人の家の大黒柱を傷つけないで、自分の家の柱を立派にするように動けばよかったですね。

 

イスラム教を信じるのは、苦しみの中にいる証拠。

 

イスラム教を貶めるのは、自信が無い証拠。

 

私は、自信を持って、苦しみをいい経験だったと言えるようになろうと思います。

 

 

ツイッターで反省

ツイッターを見ていると、あんまり自分と関係ないツイートもあるけど、新たな視点を与えてくれるものもありました。

 

最近見て、反省しないといけないな、と思ったのが、「私は」を主語にしなければいけない個人的な言論を、「社会が」とか「みんなが」とか他者を主語にすることによってで、「押し付け」のような発信をしている、という批判でした。

 

「あー私やってるなぁ」と思って、反省をしました。

 

対応策としては、全部「私は」で語ればいいんですけど、ただでさえ私は孤独な道を選んでいるので、普通に考えを言うときは「私は」オンリーになりがちなので、それがなんかちっぽけだな、というネガティブな感情があります。

 

それが嫌だから、普遍的っぽいことを言いたい気持ちがあって「社会が」「みんなが」とか言っていました。

 

今回考えて、「まぁ、ちっぽけでもいいや」と思い直すことにしました。

 

今、職場環境に疑問を感じて、別の道に進んで退職した元官僚の人をゲストにしたアベプラ動画を見ました。

 

私は、ブラック体質の組織に関しては、存在することは許容した上で、潰すというのが良い対応だと思います。

 

潰すためには、頭を殺して急進的に軌道修正するか、自分が職を辞めることで人材の兵糧攻めをして、自然淘汰へもっていくか、どっちかですね。残って、コツコツ組織改革をするよりも、淘汰して消えた後に新しい芽を出す、というのが本来の目的に合っていると思います。

 

本来の目的とは、組織の破壊ですね。破壊されるべきものだからその影を落としている、のがブラック組織です。「私は」そう思っています。よし、よし。

 

もしもブラック組織の執行部が組織の繁栄を願っているのなら、相談して協力する道が残されますが、そもそも潰そうとしているなら、「どうぞ潰れて滅んでください、代わりはいくらでもあるので」というのが平穏です。

 

官僚組織は、国の行政を担っているし、政治家をハンドリングするくらいの力があるので、滅ぶと国民はとても迷惑ですが、そこに落ちる影というものが、良識とか、手加減とか、そういう一般人感覚の外から来ているものなので、普通は防げないですね。

 

別に潰されてもまた作るだけだし、2歩下がってから3歩進む、で良いと思います。つまり、「止まれ」ってことですね。「止まれ」なら止まりましょう、進めるときに進みましょう、そんな感じで良いと思います。

 

あっ違う。「私は」止まるときは止まって、進むときは進みます。これが正解か。

 

考えを表現するのは難しいですね。