すべてを包括するための対面メソッド

ちょっと大事なことを書きます。

 

まず、前提として知っておいて欲しい情報を書きます。

 

「物事は一側面だけでは語れない」があります。

 

例えば、「人を愛する」あるいは「人を害する」。

 

それは、世の中の一側面として確固としてあるように見えるし、たぶん在るのですけど、

 

「人を愛することがすべて」あるいは「人を害することがすべて」というのは誤りです。

 

「科学技術を発展させるのがすべて」「金をたくさん稼ぐことがすべて」

 

これらはすべて確固として存在しているように見えるし、実際に存在している見え方ですが、「一側面にすぎず、明らかにすべてではない」です。

 

前提情報はここまでです。

 

で、本題に入りますが、

 

まず、より大きな世界の都合を書きます。

 

より大きな世界においては、「脅威になりうる対象を包括する」必要があります。

 

包み込んでしまえば、もうこっちのものです。

 

逆に、包み込めないのであれば、その脅威は永遠に「自分」にダメージを与えてきます。

 

それが許容できない故に、「目に付く対象、すべてを包括したい」都合が発生します。

 

これがより大きな世界のひとつの都合です。

 

で、ここで問題が発生するのですが、

 

「包括してしまえばこっちのもの」なんですが、包み込む動作においては、

 

例えば、陣取り合戦で、地面にチョークで円形の線を引く(国境を引くように)のをイメージすればわかりますが、

 

円の線を描いた瞬間に、「内部」と「外部」の区別が生まれてしまいます。

 

つまり、「内部」は包括できているけれど、その包括アクションをした瞬間に、「包括できない外部」が生まれるのです。

 

つまりは、「無為」です。どこまで突き詰めても切りがないイタチごっこです。

 

しかし、「包括したい」都合があるために、「線引きは『やります』」。

 

切りがないイタチごっこ、包括仕草を一生懸命やるってわけですから、

 

その世界はキチガイのように急速に膨張していきます。まるで宇宙のビッグバンのように。

 

張競争ですね、これに勝ってNo1になればとりあえず、他のやつらは脅威ではなくなります。

 

しかし、先ほども言ったように、「外部」は包括できないのです。永遠に続くイタチごっこです。

 

そうなった場合、次にどうするか。

 

「じゃあ、外部を内部に飲み込んで、『外部は存在しない』ことにしよう」というフェーズに入ります。

 

外部要因を、すべてまとめて内部に転移させるという無理矢理な処理が行われます。

 

「外部はない。内部しかない」「内部が世界である」っていう世界観ですね。

 

ここでは「実際に外部を飲み込めているか」はあまり重要ではありません。

 

現実的には、それは不可能です。

 

でも、「外部を飲み込めている」ように見えているのならば、それを疑わない程度に「そうだ」と思い込めているのであれば、事足りるのです。

 

で、この「外部を飲み込んで、内部だけしか存在しない」という処理を実現するために、

 

「対面メソッド」が使用されます。

 

どういうことかというと、

 

「あらゆる脅威、実害、被ダメージ」を「すべて」「相手との対面関係に帰着させる」という手法が取られます。

 

いわゆる「ゼロ・サムゲーム」というやつですね。

 

人間世界でいうと、この世の問題を、すべて「対人関係に求める」ような認知の仕方です。

 

「幸せになるためには、あいつらをボロボロになるまでいじめ抜く必要がある」

 

「利益を確保するためには、あの悪い奴を叩きのめさなきゃならない」

 

「競争相手に勝たなければ、みじめな負け犬になるだけだ」

 

といったように、その世界観の内容の可否というよりも、

 

「存在している者同士の綱引きの結果によって、幸・不幸が決定している」「それがすべてだ」という特殊な認知方法です。

 

この認知方法は、今言ったように、「外部を飲み込んで」「内部ですべてが完結している」という認識を成立させるために、よく機能します。

 

よく機能しているので、それはそれでいいのですけど(ゼロ・サムゲームはこの世に確かにあるのですけど)

 

現実としては、

 

「内部は外部を完全には飲み込めない」

「内部の状況如何に関わらず、外部要因によって影響は常に受けている」

 

というのが実際になります。

 

ということなので、結論としては、

 

「わたしとあなたのゼロ・サムゲームはこの世に確かにあるんだけど」

 

「それは世界の一側面にすぎず」

 

「外部要因に依って、そのゼロ・サムゲームを『なあなあ』にする側面も必要となる」

 

です。

 

もちろん、「常になあなあ」にすると、「内部」が「外部」を飲み込めてないってことになりうるので、まずいんですけど、

 

常に「ゼロ・サムゲーム」であり、同時に「なあなあ」でもある、という多層的な認知を私はしています。

 

さじ加減が難しいのですけど、

 

私という人間(生物)が環境に適応すると、そういう方向になりますね。

 

「内部」が激烈なのも、それだけ「外部(無いけど)」を飲み込むという「無理矢理なこと」をやってるからだと思います。

 

そういう無理をしなきゃ、存在し続けることが不可能な状況だと、私は推測しています。

 

私は、できればみんな一丸となって、戦いたいです。(という側面もある)

 

ということです。

 

おわり