透明な補助輪が付いた自転車

世の中のことが、すべてリアルではなくて、大いなる意思によって演出された劇場である(仮想世界である)と認識することはできます。

 

マジックを見て驚いていても、それが種アリだとわかったら「なぁんだ」「そんなもんか」と安堵と達観を得ることができます。

 

ハマスのテロも、演出でしょ?」

 

「それなら、別にテロが起こってもいいな、何も問題は無い」

 

と思うのは自由です。

 

まるで、自分が自転車を未熟な技術でフラフラ危ない走りをしていたと思っていたら、実は透明な補助輪が付いていて、危険はなかったとわかるように。

 

しかし、そう思わないこともできます。

 

そもそも、「何でそんな演劇、ショーを見せられているのか?」という疑問を考えるとわかります。

 

それは、「あなたが、ズレている」のを、矯正したいからです。

 

「この世界は演出込みの仮想世界だ」

 

それは事実の一側面かもしれませんが、同時に異なる側面も持ちます。

 

「もしもこの世界が実践環境だったら、『あなた』はどうするのか?」という問いかけがあるということです。

 

これは、「異なる側面が、重なっている」という現実認識の仕方です。

 

「この世は大いなる意思で制御された安全な仮想世界だ」

 

「どうせ補助輪が付いているんだから、自転車をテキトーに楽しく漕ごう」

 

という都合の良い解釈もあり得ますが、

 

いや、「これが実践環境だったらどうする?」という仮定を持った方が、リアルです。

 

そして過酷な現実を突きつけると、

 

「この世界は、実践環境です」。ということになります。

 

仮想世界に見せかけた、戦場の前線が、この世界です。

 

でも、「人間に自転車を上手く漕げる力なんてないよ」とひるむのはわかります。

 

だからこそ、補助輪が付いているのです。これは、ささやかな支援です。

 

「補助輪付きで上手くできない人が」「実践環境で上手くできるわけ」ありません。

 

だからこそ、妙な達観をしないで、腐らず、

 

「補助輪は無いんだ」という仮定の基で、自転車を上手く漕げるように成長し続けることが、生きている者に常に求められている、というロジックです。

 

それを拒むとどうなるか?「存在することを許されない」。言ってしまえばそれだけのことです。

 

私はまだ存在しようと思っているので、自転車の練習をしようと思います。

 

本当に宇宙(実践環境)の中のどこかに放り込まれて、たまたま、地球のようなところに放り込まれたら、

 

「私はどうするだろうか?」と真剣に考え、悩みます。

 

もし存在したいと思うのならば、この格好の学習機会を逃さないようにした方が良いと思います。