今日は、力を抜いて、けっこうどうでもいいことを書こうと思います。
私は最近、禁煙を破り、またタバコを吸い始めました。
ニコチンに興味があるわけではなく、ただ純粋に、タールの煙を味わうことが小さな幸せだからです。
他の銘柄もメジャーなものはひととおり吸ってきましたが、結論としては、メビウス以外のタバコはちょっと自分の好みに合わないし、負担が大きいな、と思っています。
もしもメビウスがこの世から無くなったら、本当にタバコを絶つかもしれません。
タバコを吸うというと、世間では、文字通り煙たがられるようになり、近くを通る人(とくに幼児)に、できるだけ煙が飛ばないように、壁の隅っこに顔を向けて煙を吐いたりしています。
煙で通行人に迷惑かかるし、自分の身体に対してもいじめであるし、良いことないのですが、私の私利私欲のためにタバコを吸っているということです。
なのでダサいと言えばそうなのですが、煙にはその罪悪に勝る旨さがあるので、今のところ止められないでいます。
良い言い方をすれば、「愛煙家」です。悪く言えば「身勝手な小僧」です。
そういう背景がありますので、タバコを吸うときは、少なからず罪悪感を感じています。
夜遅くに間食のスイーツを食べてしまうような、罪悪感に似ています。
そのせめてもの罪滅ぼし、罪悪感逃れのために、最近凝っているのが「上手に、吸い終わったタバコの火を消す」ことです。
タバコに火を付けて、その火を灰皿に擦りつけて消すわけですから、「タバコ目線」でいうと、「なにがしたいねんコイツ」と思っていると思います。
タバコは「最終的に火消すなら、最初から火付けるなよ」と思うのが、自然だろうなと思います。
まるで人間が「こんなに苦しめるなら、最初から誕生させるなよ」と思ったりするのと似てますね。
でも、私はタバコを吸いたくて火を付けたり消したりするのですから、せめて、礼を以て、上手に火を消したいな、と思いました。
喫煙者の方はわかると思いますが、タバコの火を消すのは、意外と難しいものがあります。
ちょっと、灰皿に擦りつけるだけでは、なかなか残り火を完全に消すまでには至りません。
だからといって、乱暴に、ゴシゴシ!ペッ!とやるのでは、礼を失する態度だと思います。あと、完全に消火できずに、灰入れの中でモクモクと燻らせるのも、よくないと判断しました。
そう思って、できるだけスマートに、最小限の力の入れ方で、確実に火を消してから、灰入れにやさしく投入できたらいいな、と実践しています。
あと、周りで吸っている他の喫煙者さんの邪魔にならないように、そうした方が良いと思っています。
実際やってみると、これが結構難しくて、完全に火を消すのに、「チャッチャ・・・チャッ・・・ゴシ・・・ゴシ」と何手も使ってしまいました。
うーんこれじゃ洗練されてないな、と試行錯誤しています。
毎回、吸い終わったら、「よし、上手く消すぞ」と集中し、色んなやり方を試してみたのですが、
ついさっきやった消し方は、まぁまぁ上手くできた、70点くらいかなと感触を得ました。
そのやり方は、「ホウキで小さく掃くように、往復でチャッチャと擦り、最後に念押しの小さい「ゴシ」でフィニッシュ、「合計三手で消す」というやり方です。
歌舞伎や、日本舞踊、落語など、古典芸能の世界では「型」を重んじるようです。
タバコの消し方も、「型」を導入した方が「安定するな」と発見がありました。
それが先ほどの「三手消し」です。「二手でもなく四手でもない」何があってもかならず三手で消すという型を取り入れることにしました。
これを極めて、「タバコ作法」のオリジナルの流儀を作っていきたいと思います。
その心は、通行人、周りの喫煙者、灰皿を設置してくれているタバコ屋の店主、タバコそのものに対する礼と、身体に対するせめてもの贖罪意識です。
私はあんまり行動をしないで、頭でっかちのシミュレーションばかりしている人間ですので、「タバコの火を消す」という些細なアクションをするだけでも、少し感動があります。
実践に挑むと、常に本番環境で、試されている、というドキドキがあります。
ミスをしてもいい。ただ、そのミスを放置するのは流儀に反するので、毎回フィードバックを得て、洗練させることができたらいいなと思っています。
他の人から「そんなことして意味あるのか?」と言われそうですが、
私はそうしたいからやるんだ、というシンプルな事です。
正解がなにかはわからないけど、とりあえず「やり続けてみて」、自分なりの「正解」を見つけられたらいいなぁと思っています。
なんでも、探求すれば、奥深くなるんだなぁと発見がありました。