娯楽性日記 8/3その②

今回は抽象的なテーマについて。「世界観」について書きます。

 

私が言う「世界観」とは、個人ごとにユニークな、「関係性の体系」です。

 

抽象的なものを抽象的な表現で説明しても、意味がわからないですね。

 

・具体的に言うと、例えば「自然科学」の世界観とか。

 

自然科学の趣旨は、「再現性のある事象を観察して事実とみなし、一般的に理解できる公用語を用いてそれを翻訳し、その理論を用いて、物質世界の組み替えを促し、社会貢献する」みたいなことだと思います。

 

・後は、例えば「恋愛」の世界観とか。

 

恋愛の趣旨は、「男女という、それぞれ属性的に利害対立している個体同士が、その構造的対立を乗り越えて互いに会話等でコミュニケーションを取り、お互いの価値を認め合い、幸福感や高揚感を共有する遊び」みたいなことだと思います。

 

・もう一個例を挙げると、「家庭」の世界観とか。

 

家庭の趣旨は、「父親と母親が支柱となり、子供の育成体制を維持しつつ、一つの運命共同体として生活を営む括り」みたいなものでしょう。

 

これらの世界観は、哲学者のマルクス・ガブリエルさんが言うところの「意味の場」とほぼ同じ意味で言っています。彼は、この世は無数の意味の場によって形作られているという論を著書で述べていました。

 

どんな立場の人でも、あるいは動物や昆虫でも、なんらかの世界観に依って生きています。イワシにはイワシなりの、「みんなで集まって、大型魚に食べられても、全体としては生き残ってやろう」みたいな世界観があると思います。

 

で、ポイントはこの世界観には、「正解がない」ということです。

 

「正解がある」と言うこともできるんですが、それは

「正解だったらいいな」とか

「過去の歴史や経験から、正解のように見える」とか

「とても強い人の世界観が正解だ」とか

いずれもなかなかの脆弱性を孕んでいます。

 

こういう基盤があやふやな「世界観」というものを、みんな程度の差はありますが、信じちゃってるんですよね。

 

ある「世界観」を、信じ切った方が強い とか、あり得ます。

 

しかし、私の考え(世界観)では、「強さは必要以上にはいらない」と思っているので、「強いから、利益があるから、じゃあこの箱(世界観)に乗ろう」みたいに気軽にやるのは躊躇します。

 

世界観は物質世界上で、重なりもするし、相克もします。私も日記で世界観を披露しているので、どっかの世界観を壊してしまってるかもしれません。

 

ある世界観に依存して、行動を起こせば、必ず他の世界観にプラスやマイナスの影響があるので、本当は慎重にやるべきなんですけどね。

 

私は、自分が好きな世界観(根本的に脆弱である世界観であっても、自分が信じたいもの)を信じるようにしています。

 

そして同時に、いつかは、その世界観から卒業する時は来るんだろうなと思っています。

 

これは逃げであり、弱さであったり、不具合であったりするのですが、信じたくない世界観を積極的に信じる必要もないので、まぁとりあえずいいやと思っています。

 

突き詰めると、世界観ゼロの状態が、すでに在るんですよね。

 

ゼロに、いろいろ派生した世界観が重なってたり。

 

私は、世界観ゼロと対峙するだけの技術はないですが、すでにそれは在るので、好もうが好まなかろうが、対峙しちゃってる状態です。

 

これは大変だ。無理せず信じたい世界観を信じてトボトボ歩いてみよう。