自我強い系人間の言い分

今回は、主張というよりも、ただの情報提供です。

 

タイトルは「自我強い系人間の言い分」ということで、つまり私の言い分なのですが、

 

世の中、特に日本社会においては、自我を小さくして、雰囲気に乗って、生き残ろうという人が多いように思います。

 

それだけ、「大いなる意思(悪意)に粛正される場合」が実際にあふれているから、それを避けよう、という趣旨で、生存戦略としては正しいと思います。

 

あと、単純に、「責任感」や「当事者意識」がない方が、幸福感を享受しやすいですしね。

 

私も、重い責任は嫌ですが、「やらなきゃしょうがねぇだろう」という合理性という観点からの理解から、その嫌なことを受けているだけです。

 

けっこう10年以上前、人柱みたいな扱いを受けて、「ひとりの人間にここまで負担を背負わせるのか」と戦慄し、「こういう目に合うことは無かった方がいいなぁ」と、犯罪被害者遺族のような感想を持ったこともあります。

 

なので、最近は「自分で考えて行動しよう」ムーブメントに、「やれやれ・・・」「またやっかいなことが始まったぞ」と嫌気がさしている人は少なくないと思います。

 

確かに、「自分でどうこうしようとあがいても」結局俯瞰してみれば「嵌め構造」の中で苦しむだけなんだから、ナンセンスだ、とニヒルに思うのは自然かと思います。

 

私も「嵌め構造」でがんばるのはしんどいな、嫌だな、と思います。

 

私は機動力特化ですから、俯瞰で上にピュッと逃げることができるので、ついつい逃げようという発想があるからなおさらです。

 

しかし、嵌め構造に陥れられても、戦う手段が無いかというと、実はあるのです。

 

それは「How to do」にこだわるということですね。

 

例えば中村哲さんが、貧困国に入って、土木工事をして、農業を復活させても、結局、対極の武装組織に殺されてしまった。

 

「ほぅらやっぱり嵌め構造の中で踊っても救われないんだ」「骨折り損のくたびれ儲けだったな」と思うのが普通です。

 

しかし、その行為自体の評価ではなく、それをどのように行うか、についてこだわるという志向は、情報の世界においては、ひとつの「嵌め構造からのすり抜け」になりうるのです。

 

俯瞰して逃げなくても、嵌め構造の中で、悪意の洗礼をしのぎながら、結果を出すことは可能だと言っています。

 

結局、「嵌め構造があるぞ、無駄の匂いがするぞ」という世界観自体も、ひとつの誤誘導として機能しているということです。

 

管理者は、「そこまで計算ずく」です。あまり管理者を舐めない方がいいです。

 

なので、「うわっ嵌めじゃん」と思っても、ちょっと立ち止まって、考えて「いや、突破口はあるぞ」と思い、

 

「How to do」にこだわるぞ、という意思決定をするのも、ひとつの正解になります。

 

あくまで、これはひとつの模範解答なので、唯一の正解でもありません。

 

「私は、やっぱり、大きな流れに従って、あまり自我を持たずに、生きていくんだ」それでもいいと思います。

 

ただ、「管理者のカバー範囲は人間目線よりはるかに広い」ということと、「情報の世界においては、どのようにも受けられる」ということは知っておいて損はないと思います。

 

だから「What to do」にこだわるぞ、でもいいんですけど、

 

色んな広範な戦略が取れる環境において「その戦略のみにこだわる」という、わざわざ窮屈な、どんずまりに陥りやすい、縛りルールのハードゲーム世界観にしがみつく必然性を、私は感じていないということです。

 

こういう自由度、獲得してみたいと思わないでしょうか。

 

ひとつのカードとして、検討して頂ければ、自我強い系人間としては、面白いことになってきたぞと思います。