A diary 9/10その②

いわゆる構造主義みたいな考え方は、よくわからないのだけど、

 

私は物事の構造をよく見ます。

 

作用を見ているのですが、この作用を継続的に生み出す装置が「構造」に当たるもので、構造がわかればそのシステムから何がアウトプットされるのかが予測可能になります。

 

ただ、最近はこの構造を見るってへぼいなと思っています。

 

大体、現実のことは、複数の層が重なっているので、層Aにおいて見られる構造だけ見ても、層Bや層Cにその作用が打ち消されることがよくあるからです。

 

例えば、キリスト教カトリックを信じていても、聖職者が性虐待をする、とか。

 

物質の存在をどうしても疑えなくても、幻覚を見る、とか。

 

これらの矛盾のような多層が、「実際にある」わけではないですが、「そういう風に見る・解釈する」とした場合、層Aの構造だけ見て満足するのは、逆に積極的に誤りに行っているようなものです。

 

なので、構造を見るならば、最低限、「すべての層の構造を見る」ことが必須なのですが、これがなかなか難しい。

 

「私たちが見えている世界はすべてのうちの一部でしかない」し、「見えている対象も、多層の相克の表面的な結果である」からです。

 

こうなってくると、「構造を見る」スタイルが、かなり大海に浮かぶボートでオール1本で漕ぐみたいな、かなり無茶なことだし自爆行為だなぁと思います。

 

逆に、構造を見ることの利点は、「何がわからないかがわかる」ということだと思います。

 

「層Aの構造だけ見ていても、層B・層C・・・が見えていないのでわからない」

 

と言う情報は、価値があります。

 

怠惰な私としては、ガツガツ「わかること」を獲得しようとするのですが、実際、現実的にわかることは、「わからないということ」だけです。

 

「~がわからないのなら」

 

「~をしなきゃいけないな」「~は判断できないな」

 

ということがわかるので、無駄なあがきが減ります。減点法で有利になります。

 

攻めとしては、「誤りでもいいから、やってみたいことをやってみよう」でいいんじゃないでしょうか。

 

それで上手くいったら「たまたま」だし、間違っていたら「そういう層もあるんだなぁ」と思うだけです。あまり進歩はありません。

 

これだと積極性は減りますが、「暴走やっかい人間ではない、安全な人間」になれて、今の時流に合っているんじゃないでしょうか。