勘違いの使い方

SNSとか見てると「あの人、おかしなことを信じてその通りに行動してて、危なっかしいな」と思うことがあると思います。

 

その観察が真実に近い(正しい)場合が多いと思いますが、妄信のような勘違いは、私はよく使います。

 

確かなことが少ないこの世で「Aは正しい」と言い切ること自体不自然な場合が多いですが、その環境においても「Aは正しい」と断言し、信じるということは私にとって必要なことです。

 

私は、人間の生命活動(内面、及び外面)を、物質移動現象のように俯瞰することを推奨しています。この変換は、計算によるシミュレートで、現実とは異なるバージョンの簡易現実MAPみたいなものです。

 

これをやることのメリットは、意味の正負をベクトルに変換することで、極めて客観的に自分や他人を俯瞰できる点にあります。

 

例えば、かわいいペットのウサギを銃で殺すことはとても悪い事ですが、畑の作物を食い荒らすクマを銃で殺すことは正しいことになります。

 

どちらも「人間が」「動物を」「銃で」「殺した」というほぼ同じ行動ですが、そこに「ペットは家族だから守るべき」とか「人の方が動物より優先だから害獣は殺すべき」とか主観が入ってくると、自分の行動の正確な評価というのが難しくなります。

 

慣れない言葉で言うと、バイアスがかかるということです。

 

例え悪いことであっても、悪い、ダメ!と断ずることなく、「一体どのような現象が起こったのか」という正確な評価のために、物理的に見て、客観性を確保するというのは必要なことです。

 

その客観的な情報を、物質移動シミュレーションに変換して、「どの方向にどのくらいの力で移動したのか」という観点で一元的に評価するのがいいです。

 

そういう意味で言うと、冒頭に述べた「勘違いして進む」ことの技術的な意味が明らかになります。

 

Aさんが「どの方向にどれくらいの力で移動したのか」という問題に関しては、Aさんが勘違いをしていようが、正しい認識であろうが、酒に酔っていようが、ナルシストであろうが、パンツを履いていなかろうが、関係なくなります。

 

「この方向に対して、このくらいの力で進むべき」という目標が定まったら、それを実行するためのプログラムコードとして、「Aが絶対正しい」と言う場合も当然あり得ますし、人間による言語反芻の構造上、それが便利になります。

 

ライト兄弟も「飛行機は必ず空を飛べる」というわけのわからん呪文を唱えて、開発にいそしんだことでしょう。

 

ライト兄弟の場合は、結果的に正しいことを信じていたので、まともな人認定を受けているでしょうが、飛行機の無い時代においてはまちがいなく変人であり、勘違いを信じているいかれ野郎だったことでしょう。

 

俯瞰するにおいては、重要な作用の面は、「ライト兄弟が」「飛ぼうとして」「飛んだ」ということであり、ライト兄弟が勘違いをしていようが、正しかろうが、どうでもいいことになります。

 

しかし、俯瞰ではなく、人間関係の場においては、相手がいかれ野郎であるか、又は誠実な人であるか、は大問題であり、無視できることではありません。

 

私が言っているのは、「俯瞰するときは適切に俯瞰すべき(作用だけ抽出すべき)」で、「人付き合いをするときは俯瞰は必須ではなくきちんと相手と向き合うべき」ということです。

 

私がよく使う、勘違いによる直線的な移動は、ボロい操作性の悪い車で爆走するようなことで、技術的には未発達ですが、基本的にはズレたことではありません。

 

視野が広がり、技術が向上すれば、高速で飛び回るハエのように、もっと複雑な動きができるようになると思います。

 

もし勘違い野郎を見かけたら、こいつバカで~とすぐ思わないで、こいつどこに移動しようとしてるんだろう、と客観的に見るといいと思います。