私は、経済効果を含む公共的ベネフィットの損得ゲームの観点で、この判断は正しいとか、この行動はロスが少ない、とかよくゆっています。
そういうものさしで見ているので、学者さん達に代表されるような「十分な教育投資を受けて」「知的才能があり」「本人もおそらく努力した」という個体に対しては、普通の一般人よりも見る目が厳しいです。
それだけ投資を受けたのならば、ハイパフォーマンスで当たり前、そうじゃなきゃ元が取れなくて困るなあと思っています。
で、実際の学者さん達のパフォーマンスを見てみると、「それだけ恵まれた境遇で、その水準のことしかできないの?」とイライラすることが多かったです。
例えば、過去に起こった事象の分析は達者な一方で、未来予測に関してはまったくの素人みたいな感じの学者さんを見ると「この人理解が浅い偽物だな」という評価をしていました。
しかし最近、学者さんたちの行動様式みたいなものを考えて、今はそういう風に思わなくなりました。
彼らは、脳の中に複雑な神経回路を先天的にも後天的にも所有していて(事実)、その長物と折り合いをつけるために研究活動をしているのだと気づいたからです。
「自分の脳の回路の在り様と、現実の現象の解釈が合致すると(理解できて、より深い理解ができると)、気持ちよくてスッキリする」という生物のようです。
私も、脳になんらかの回路(未来予測とか意思決定のとき使う)を持っていますが、先天的に複雑な回路があったわけではなく、意図的にほぼ無地の状態から構築していったという背景があります。
なぜそうしたかというと、それを道具として必要としていて、より洗練された道具の方が便利だからです。つまり、私にとって脳は手段以上のものではありません。
一方学者さんは、その脳の回路が意思決定の基盤になっていて、「その回路と現実を上手く合致させてホッとしたい」志向を持っているのだと気づきました。
だからこそ、過去起こったことの分析には意欲的だけど、未だ現れていない未来にはそれほど関心がない、という現象が起こります。
「自分の回路があって」「それで現実をどう受け止めるか」というゲームです。公平に評価すると、この態度はやや受動的すぎる面があります。
理想を言うならば(スーパーマン的パフォーマンスを期待するならば)、私は「もっと攻めて欲しい」という感想を持ちますが、受け身状態で十分満足してしまうなら、それほどリスク取って前に出ていく必要性を本人が感じないでしょうから、それは無理の無いことだなと思います。
現状の受け身スタイル研究でも、科学の発展を進め、公益に利する活動ができていると思うので、特にダメ出しする気は起りません。いつも熱心に研究して頂きありがとうございます、と言いたいです。
これからは、社会や家族から十分な投資を受けたのに関わらず、大したことできてない、というような厳しい目は向けず、学者さんってそういう受け身スタイルの生き物なんだ、という理解でありのままを尊重したいと思います。
私は十分な投資を受けた身で、パフォーマンス的にはまだまだ足りてないという認識なので、私の問題として、ベネフィット追求ゲームにいそしもうと思います。
愛とは許すこと。許すことができてよかったです。