精神論の在り方

私は15,16歳くらいの時は、バキバキに尖っていた時期で、精神的にもかなりネガティブで追い込まれていました。

 

正確に言うと、追い込まれまくってもファイティングポーズを取り続けて退かないという覚悟を決めていました。

 

これはいわゆる精神論で、(気合の力のみに頼っていたわけではありませんが)この気合がなければ、途中で諦めたり、意味のない方向転換とかやっていたりしたと思います。

 

昨今では気合とか精神論とかは、ダサい、キツい、古いみたいなイメージがあるようですが、精神論って、つまりインプットされた精神的な情報を、どう処理するか、という脳のシステムの話なんですよね。

 

つらくても頑張る、というか、「つらい」という情報を、インプットしてもパフォーマンスに悪い影響を与えないようにする技術が精神論の中身です。

 

機械だって、今の夏のような酷暑の状況化だと、熱で動作が怪しくなったり止まったりします。それは人にも同じことが言えて、悪条件でパフォーマンスが落ちるのが普通です。

 

私のティーン時代は、その普通を許容できない、という判断をしていたので、つらくてもへこたれない、むしろパフォーマンス上げるくらいの目算でいました。

 

その時役に立った考え方は、「物質依存」です。

 

哲学的なことを考えたりしてましたから、この世のあらゆるものを疑う、という習慣が身についていました。「これってうさんくさいんじゃないの?」という印象を選択していたのではなく、「当たり前なこと、固定観念」の破壊・消去ですね。

 

で、色んな当たり前を消去していったのですが、これは疑いようがないな、と思ったのが「物質」の存在感です。

 

「物質」が無い、というのはどうやらかなり困難だぞ、これは基礎になりえるぞ、と思い当時は物質を足場として採用しました。

 

今となっては「まぁ物質はそこそこ固いよね」という評価で、又必死で挑戦していないので、そこまで固い足場を必要としていない境遇もあってその信仰は薄くなりました。

 

物質・・・つまり「自分の肉体」を信仰していたんですね。どんなことがあっても、「身体がここに在るならば」大丈夫だ、負けないことができる、と自分を鼓舞していました。

 

ここで面白いのが、結局、実際に物質が硬いか軟らかいかは、問題になっていないことなんですよね。

 

「物質は絶対的、それを信じる」という意思の力、言い換えれば「ちょっと狂ってる思い込み」なんです。

 

世界を自分を疑いまくって、弱い思い込みを消去して、別の強い思い込みをしている、というなかなか不思議な生命体になっていました。

 

やってることはヘンテコなんですが、それでパフォーマンスが上がるんだから面白いですよね。

 

人間という与えられた資本を、最大限活用しようとすると、こういう「思い込みを捨てて、思い込みを創り出す」とかそういう使い方になってしまうんです。

 

もし人間の体じゃなかったら、違う使い方をしていたと思いますが、人間なのでこうなっちゃいますね。

 

今は、物質にそこまで頼らない頭になっています。これは成長とも言えるし、衰えてるとも言えると思いますが、いざ困ったらまた物質という切り札に頼ろうかな、と思っています。