「なぜ世界は存在しないのか」感想文 その1

哲学者マルクス・ガブリエルさんの有名著作「なぜ世界は存在しないのか 訳:清水一浩」を読み始めました。

 

序章「哲学を新たに考える」

 

<要約>

形而上学」とは、個人の主観を排した客観視により、全ての物質的な存在を語ることである。「構築主義」とは、全てが個人の主観の中に存在していると考えることである。「新しい実在論」とは、物質的な存在と、個人の主観の中の存在同士が、それぞれ関与しない様相を呈し、又、それらの存在全てを包括する『世界』は人間には認識不可能である、故に『世界』は存在しない、と考えることである。

 

<感想>

序章を日本語訳で読んだのですが、思ったより平易な言葉で書いてあったので、「おやっ」と思いました。素人にも分かるように伝えてくれるのは、嬉しいですね。

 

ガブリエルさんのゆってることは、大体文字を追っていけば、理解できるんですが、印象としては、この人の頭の中はよく整理されているな、と感じました。精神衛生的にも優良そうですね。

 

「新しい実在論」の中身は、要約に書いた通りだと思いますが、「存在同士が関係性なく、単発的に存在している」という考えは、私と違いますね。私は全ては繋がっていて、「ひもを捻じる」ような操作をして、個々に壁のようなものを作っていると解釈しています。

 

この事に関して、ガブリエルさんは『「ブラジルの蝶の羽ばたきが、北半球のハリケーンと関係している」と一般的によくゆわれるが、それは違うと思う』と具体的に明言しています。なぜこういう発想に至ったのか、気になりますね。

 

私の知ってるパターンだと、人間は「自分は〇〇が△△だったらいいなぁ~」の願望を、「〇〇は△△である」の断定の文章に変換して言葉を紡ぐことを頻繁にしますが、ガブリエルさんはそれに当たるのか・・・今の段階ではまだわからないですね。

 

普通の発想だと、「他人のことなんて私の知ったことじゃないどうでもいい」or「すべての存在は繋がっている」のどっちかの解釈になるのですが、「すべての存在は繋がっているわけではない」とはっきり言う人はめずらしいですね。もし繋がってると、「新実在論の根底がゆらぐ」からかな?それだったらシンプルですね。

 

物質的な存在と、個人の主観の中にある存在、どちらもある、というのは、私も同意なので、たしかにそうだよなぁ~と思いました。地球プレイヤーとしては、この認識で不具合が発生する可能性は低いと思われます。

 

「『世界』は存在しない」については、ちょっと違和感がありますが、「全ての存在を特定の規則で語りうる(=『世界』はある)ことはできない、だから世界は存在しない」と分かりやすく書いてあったので、あぁ、それならまあ問題ないかな、と思います。

 

ウィトゲンシュタインの「語ることができないことに関しては、沈黙しなくてはならない」と同じニュアンスですね。「世界について語れない」→「世界は存在しない」の変換は、ちょっと強引ですが。

 

人間が『世界』を語ることができないのはおそらくそうですが、ガブリエルさんはこれに関して、「人間が能力的に十分でないから語れない、といっているわけではない」と明確に書いてありますね。

 

ここから、おそらく「認識できない『世界』を知ろうとがんばっても意味ないよ」という考えを持っているんでしょう。ガブリエルさんは大学教授ということで、発信力のある立場なので、自分の本が与える、他者の行動への影響を考慮すると、こういう交通整理的なニュアンスを持たせる必要がある、のだと解釈しました。

 

私は、人間でも能力があれば『世界』は語れると思っています。ただ、この『世界』というのがおそらくめちゃくちゃ多層的で、しぬほど広いですね。勘ですが。だから、本当の意味で「全ての存在」を包括的に語る、というのはもう人間の領分を軽く超えているかもしれません。そういう意味で、「『世界』は存在しない」は、地球プレイヤーにとっては特に問題が発生しない言葉だなぁと思います。

 

最後に、ガブリエルさんはこの章の最後で、「常に、哲学は1から始めなければならない」と書いてあって、この考えは私も同じ意見だったので、同士がいるんだと嬉しくなりました。