「なぜ世界は存在しないのか」感想文 その4

3章 なぜ世界は存在しないのか

 

<要約>

・存在すること=何らかの意味の場に現象すること

・世界とは、すべての意味の場の意味の場であり、それ(「世界」)以外の一切の意味の場がそのなかに現象してくる意味の場である

・ある任意の意味の場の中に現象する「世界」は、偽物、コピーイメージであり、世界とは異なる

・「世界は存在しない」は、否定的存在論の主命題と名付ける

・「限りなく数多くの意味の場が必然的に存在する」は肯定的存在論の第一主命題と名付ける

・「どの意味の場もひとつの対象である」は肯定的存在論の第二主命題と名付ける

・超思考とは、世界全体と自己自身について同時に考える思考である、又、「超思考が存在する」という命題は、絶対的観念論と呼べる

・すべてを包摂するもの(「世界」)は、その自身の中に現象することはできない、よって超思考は誤りである

・「対象領域」は、そこに現象するものが何なのかを問わない傾向がある、一方、「意味の場」は、そこに現象する対象によって規定され、意味の場と、対象は互いを欠かすことができない、固く結びついたものである

・「世界像」という観念を捨て、「すべてを説明しなければならない」という無理な要求から、科学を守らなければいけないと思っている

 

<感想>

3章を読んで、おぉ~と思いました。なぜなら、私の前回の感想について、言及し、包括しているからです。心を読まれている?

 

前回、対象領域と意味の場の違いを要約に書きましたが、けっこう間違ってましたね。本書によると、「対象領域は、そこに現象するものが何なのかを問わない傾向がある」・・・うーん、よくわからん。「現象を受動的に捉えつつ、それについて語られる領域」という意味でしょうか。一方、意味の場は、「現象の起源について規定したもの」かな?合体すると、対象領域=「意味の場を起源として対象が現象し、その対象を受動的に捉えつつ、語られる領域」ということかな?正解だったらいいな・・・

 

前回、私が、「哲学をやってることは一種の客観視で、客観視は万能ではない」のようなことを書いたんですが、これに対応するのが「超思考」の話でしたね。ガブリエルさんは、私とは違う点で、超思考は欠陥があるとゆっています。

 

ガブリエルさんは、超思考は、「世界の全体像」があると想定している、それは誤りだと言っています。私は、世界の全体像はあると思っていますが「人間が能力的に不足してるから」見えない、と思っています。

 

「世界」が見えない3段階の限界は、内側から言って、生物の「ソフトウェア性能限界」「ハードウェア性能限界」「観測点としての性能限界」だと思っています。

 

「観測点」の定義は「自他を区別すること」です。観測点としての機能の在りようによっては、意味が消失するということが起こりえます。ガブリエルさんは、ソフトウェア、ハードウェアの性能を突き詰めても、観測点としては、確かなことがある、という前提のようですが、この観測点というのも、人間に実装されているもの(あるいは他の生物のものと同じかもしれませんが)はユニークなものですし、万能な観測点というものも、存在しないと思っています。

 

ここについては、私は「未知なのでわからない、想像も及ばない」のですが、とりあえず、何が未知なのか、何が不可能なのか、はっきりさせるために、ソフトウェアやハードウェアはもちろん、観測点の性能限界を見極める、というアクションは避けて通れないと思っています。

 

そういう意味で、私は「世界の全体像」を想定した超思考を支持します。ただし、目下の諸問題を効率的に捌いていく、という志向でいくと、世界を知ることは一旦やめておいて、世界はないという前提で、生物(人間)の手に負える「意味の場のフィールド」をよく見た方がいい、という意見には、賛成します。

 

いってしまえば、ガブリエルさんは政治をやってるんですね。研究者社会の向かう先を正していく、という趣旨で、本書を出版されたんだと思います。

 

これで、各研究分野が、無駄なく進歩できたら、いいことだ、と思います。