火を起こす感動

私が生きてて思うんですが、現代人って、赤ん坊のときから科学技術の恩恵を受けて育ってますよね。これって、ちょっと個人的に気に入らないんですよね。

 

平成生まれの子なんて、最初からパソコンあるし、ケータイもあったでしょう。便利でいいんですけど、私は自力でパソコン作れるようにならないと、パソコンを使いこなせてないんじゃないかと思います。

 

そういう意味で突き詰めると、火を起こすところから、スタートしたいという気持ちがあります。かなり不便なので、それは嫌だしなかなかやらないんですが、そのプロセスを通らないと、ガスコンロに依存しちゃう現象が起こります。

 

生命が機動力を持つには、そういうあらゆる依存をできる限りひっぺがさないと、問題が起きて、方向転換が迫られているときに、臨機応変に動けなくなってしまいます。

 

最初に火を起こした人は、どんな気持ちだったのだろう。まず、火を起こす前に、森の火災とかで「火」の存在を確認しているはずです。

 

「火」を初めて見た人は「怖い、めっちゃ熱い、やばい危険」という恐怖心や警戒心を抱いたと思います。しかし、「火って夜明るいし、離れてれば暖かいし、便利なんじゃない?」と別の側面に気づいた人が、「よし、火を試しに起こしてみよう」と考え、行動に移します。

 

ここからが大変で、「どういう条件で火が起こるかわからない前提」で、「木をめちゃくちゃ擦り合わせる」という傍から見たら頭のおかしい変な行動を取った人が、実際にいたという事実があります。

 

この人を突き動かしていた動機が、「火を手に入れたい強い欲望」です。もしかしたら、過去に家族のひとりを凍死させてしまった経験があり、その時何もできなかった自分に悔しさや怒りを感じていた人かもしれません。

 

「あの時冷たくなって死んでいった家族を救いたい」そのために必死に火を起こそうとしていたんじゃないか、と想像します。実際は、知らないので謎ですけどね。

 

そして、試行錯誤の末に、見事火を起こせたときの歓喜は、涙が出るほどでしょう。

 

そういうプロセスを、経ずに、ガスコンロで火を使う、というのは、なかなか狂ってるな、と私は思います。私も例外ではなく、狂っているのです。

 

正しい姿勢とは、過去の数多の人間が歴史を紡ぎ、そのバトンを受け取ったからには、過去のプロセスを全部背負って走りor歩き、次に渡していくという姿勢が好ましいのではないでしょうか。

 

これを歴史主義、とゆうらしいですが、これを受け入れない人は、おそらく、自分が生を持ったことに関して、「迷惑だ」と感じてる人なのかもしれません。

 

「こんな世界なら生まれてこなければよかった」そう思うことは、十分にあり得ますし、その発想自体を否定するつもりはありません。

 

特に子供の時から、東日本大震災や、大雨洪水や、経済恐慌や、学校でのいじめなどに触れてきた若い人たちは、そう思うのが当たり前でしょう。

 

私は、もしそういう人に会ったら、「歴史を見てみて、過去の人はみんなすごかったんだよ、僕たちも同じことができるよ」と言ってあげたいです。「ふーん」と言われたら、それまでなんですが、過去からのバトンを繋ぐ作業も、悪くないな、と思ってもらえたら嬉しいです。

 

まぁ、バトンが途絶えても、客観的にみると「それまでの存在だった」というだけなので、客観的に見てる人はそういう評価をするでしょう。

 

見る位置によって、世界は景色を変えます。どの景色を選ぶかの自由はあった方がいいな、すべての人に選択の機会を与える、それは価値のあることだと思います。