真理を追う者

Youtubeのとある動画のコメントを眺めて、いろんな人の思考を眺めていたんですが、かなり面白い2人の対話を見て、オホホと思いました。

 

どういう意味で、オホホなのかというと、2人の話が全然嚙み合ってない状態で議論している様が「良い模型を発見しちゃったな」というオホホです。

 

動画は、京王線でジョーカーに扮した人が起こした犯罪事件に対して、岡田斗司夫さんが考えを述べる動画です。

 

気になる対話の構成がこれです。Aさんの主コメから始まりました。

 

Aさん「(他のコメントのように)犯人を、全く理解できない『異常者扱い』する人の発言を見ると悲しくなる」

Bさん「犯人を異常だとみなす考えを持つのは普通だと思う」

Aさん「『犯人は異常者ではない』と言っているのではない、犯人と自分が違うと証明するために罵詈雑言を書くような姿を見ると、悲しくなると言っている」

Bさん「私は自分の考えが正しいと証明したいのではない、事件の被害者の立場になったと想像すると、自分は『犯人は異常者である』という考えを持ったということだ。恐怖も感じている」

Aさん「私には、あなたが犯人と自分を区別しようとしているようにしか見えない」

Bさん「犯人と自分に隔たりを作って何が悪いのか。自分は不幸でも人を殺そうとは思わない。あなたは不幸なら人を殺しても良いと思っている?」

Aさん「あなたは自分が正しいと思い込んでいる典型的な人だ。詭弁・誤謬を用いて議論しないようがよい」

Bさん「?あなたの『隔たりを作ることに反対』の意見に対して、私は『隔たりを作ることに賛成』と言った。あなたも自分と違う意見を理解していないと思う。私が犯人に対して感じた隔たりとはそういうことだ」

Aさん「私は自分の抱いた感想を話しているだけだ。あなたは誰と会話をしている?私に対して『あなたはこう思うんですね』と言うのはストローマン論法のようだ」

Bさん「あなたと話している。自分は『私たちの意見を同じにしたい』ではなく『私の意見を理解してもらいたい』気持ちを持っている。そのために『あなたはこう思うんですね』と言った。ストローマン論法は知らない。」

Aさん「あなたにはこれだけは気づいてほしい。『理解すること』と『賛成・納得すること』は全然違うと。」

Bさん「それは知っている。あなたに理解してほしいということだ。」

Aさん「私は理解している。だからこそ『それは違うのでは?』という意見が出てくるのだ」

Bさん「私はあなたに理解してもらえればいい。違う意見が出るのは仕方がないと思う」

Aさん「犯罪者に心理的な隔たりを作るのは仕方ないと思っている。しかし区別意識が、奴隷制魔女裁判などの大きな歪みを生みかねないということをわかってほしい」

 

と、ここまでで、一応AさんとBさんの会話は終わりました。そして、この後入ってきたCさんと、Aさんがまた揉めます。こっちのほうもかなり良い情報なんですが、長くなったので省略します。

 

私は、おそらくBさんとは難なく話せるんですが、Aさんと話すとたぶんAさんが拒否反応を起こして、私は(何言ってんだこの人?)の状態になるのではないかと思います。

 

とゆうのも、以前、私が実姉と「日本の教育の質」について議論したときも、姉にもこのAさんとかなり近い様態で、拒否反応を起こさせてしまった経験があるからです。

 

私は姉に対して、「明治時代の教育方法は、教養がある人物を多く輩出したようだ。現代の教育よりも明治時代の教育の方が質が良いと思うのだが、どうだろうか?」と投げかけました。

 

「教育の質」という「尺度が定まってなければ意味がない、ただの器的なフレーズ」を使った乱暴なスタイルであることは事実ですが、私が欲しかった情報は2つあって、まず教育の現場(小学校)にいる姉が「教育の質」に関してどのような考えを持って実務に当たっているのか、実務者からの視点による解釈を知りたかったのが1点。

 

あと、明治の教育方法の方が、私には魅力的(よく知らないけどなんか良さそう)に思えたので、実際の所どうなのか(もし明治時代が劣っているならば、その根拠など)を純粋に知りたかったのが2点目。

 

この目的で、議論というか、情報をもらおうと話を始めたのですが、姉はビックリするくらい、「自分の考えが無い人」のような受け答えをしてきたのです。

 

上記のAさんも、よく読むと、最初から「感想」しか言ってないんですね。つまり理解すべき真理というものが他にあると。Bさんはお互いの「考え」を理解しようとしていて、この「考え」と「感想」は、繋がっているという認識だと思います。

 

Aさんは、「考え」は真理への理解で、「感想」とは全く別、という認識ですね。これは脳みその扱い方の違い、最近覚えた用語でいうとアルゴリズムの違いだと思うんですが、同じ脳みそ(細胞の密度は違うかもしれませんが)を使って、ここまで話が噛み合わない現象は、だいぶ衝撃的ですね。

 

姉との会話で、怒られたシーンは

 

姉「結局あなたは何が言いたいの?」

私「明治時代と、現代と、どっちが教育の質が高いかって話だよ」

姉「教育の質・・・?質はないんじゃないかな」

私「(怒って)じゃあ全く教育を受けなかった子供と、算数・読み書きを教わった子供、どっちが質が良いよ!?」

姉「・・・それは明治時代と現代の比較の話と違う話じゃない。文脈を無視して私の言ったことを切り取らないでよ。ってかなんでそんな喧嘩腰に言われなきゃいけないの!私は世間話してるだけなのに」

 

こんな感じなんですが、私が怒った理由は、そもそも教育の質の優劣を話題にしてるのに、「教育の質なんてない」という、その前提を崩しにいくという乱暴な手法を用いてきたからです。

 

『もし教育の質に「0と1」の差があるならば、「8と9」も必然的にあるだろう』と言うセリフを準備したうえで、「教育を受けなかった子供と~」の質問をしたのですが、姉は「質問に答えず、こちらの論法を否定してくる」というなんとも卑怯な逃げを打ってでたので、ちょっとショックでしたね。

 

教育の実務者が、「教育の質」について語ることができない、議論も円滑に進められない、という事実に直面し、少しの絶望を抱いた私は、トーンダウンして、姉でも難なく答えられそうな、教育について表面を舐めまわすような質問を何個かして、トータルとしては、明治時代よりも現代のほうが、比較的良い教育だ、と姉は思っていることがわかり、終わりました。

 

しかし、この同じ日本語、同じ日本人、同じ脳みそを使った会話で、ここまで嚙み合わないというのは、とても面白い現象だと思います。

 

結論から言うと、脳みその使い方が、大分違うということですね。逆に言えば、使い方の内容をよく観察すれば、噛み合わない二人の脳に互換性を持たせることは可能だということです。

 

もうちょっとよく分析して、考えてみるのは面白そうです。