真理を追う者 その2

前回の日記で得た、会話の行き違いは、比喩すると理系vs文系のような現象なんだと思います。

 

(比喩ですが)理系は、論理を厳密に文字表記する、という方法論を用いているので、ここには人間の心理とか、感情という要素は入れない、というかそうゆう要素が入ることが不可能な、特殊で素晴らしい領域がある、そこには真理があり、真理を理解することが重要だ、という態度でしょう。

 

(比喩ですが)文系は、心理や感情を正確に文字(又は他の媒体で)表現する方法を用いていて、その構造がその人の考え方であり、自然環境又は社会環境により適合した考え方が優れていて、様々な他者の考え方を比較することにより、簡単に言うと好きな考えを選択する自由がある、という態度でしょう。

 

どっちでも、実際に存在するので、それはありのままに受け止めるとして、どちらにも共通している事は、どっちも人間で、同じような構造の肉体を持っているということです。

 

私が思うのは、脳みそは肉体から切り離せないし、脳みそも肉体の一部なので、脳を含めた体全体をひとつのシステムとして、どのようなシステムが優れているか、とか、より良いものにしよう、という志向の方が生産的じゃないかな、ということです。

 

だから、考えるといった精神活動だけじゃなく、運動不足だから散歩する、とか、映画を見て涙を流す、とか、栄養バランスの良い食事をとる、とか、定期的にうんちする、とかも結構大事なことになります。

 

それらを全部ひっくるめて、生命活動です。

 

で、この生命活動は何次方程式で表せられるのか知りませんが、大枠を囲って閉じさせた上で、2次元の文字、つまり数式で表現することは可能だと思います。

 

理系の方法論で、生命活動のすべてを記述することは可能なのだから、理系の人には、それを頑張ってほしいのですが、理性の中の安定したユートピアに閉じこもって外の世界を憂うのは、もったいないなと思います。

 

かくゆう私も、理性の中のユートピアに閉じこもっていた時期がありました。それは、体は健康でしたが心がズタボロで、そんな危機的状況においても、意思決定をする理性が司令塔の機能を安定して働かせるようにする必要があったからです。

 

その過程で、頭の中で、理性vs感情の戦争を行い、どちらが意思決定権を持つか、のぶつかり合いの権力争いもしています。このとき、理性が意思決定権を持つべき、という結果に至りました。

 

心はズタボロでも、理性はとても安定した、心地よい、まるで楽園のようなヌルい環境であったために、リストカット等をせずに生きていられたんだと思います。

 

理性においては、自然言語に依存しない、抽象的な思考をモヤモヤやっていました。

 

おそらくですが、理系の人の理性の中も、似たような環境なのでは?と推測しますが、これはあくまで推測なので本当の事はわかりません。

 

とりあえず、理系の人のことを知るには、自分が理系にならなくては無理でしょう。ということで、最近知った「アルゴリズム」を勉強してみます。

 

その勉強に数学が必要なら、数学もやってみます。すでに、中学生の数学の参考書はこの前買ってあります。『「掛け算」って一体何やってるんだ?』という躓き方をすると、なかなか先に進めないので、詰め込み方式で学習した方がよさそうです。

 

この年で、今から間に合うかなぁ