他力本願の意味

「他力本願」を、他人任せの意味だと思っていたのですが、仏教用語での正しい意味は、「他力」とは阿弥陀仏による万人への慈しみの力のことだと知りました。

 

私は何かと他人任せにしていますが、他人がうまくやろうが失敗しようがどっちでも構わない態勢を取っています、他人の力を、自然の風とか、海の波とか、そういう自然物として扱っています。

 

基本的に、対自然のゲームをしているんですね。対自然のゲームは、対人間の競争よりも大分ハードモードですが、なぜそんなハードモードをあえてやっているかというと、対自然のゲームをしたほうが生物として必須の技術が研磨される(研磨しないと死ぬから)、得られる利益の大きい環境だからです。

 

対人間のゲームは、やったことありますが、勝ってもあまり感動がないというか、「やったー!・・・はぁ」みたいに虚しさを感じます。もしすべての人間に勝って、ナンバー1になって、死ねるかというとまだ未練が残ってしまいます。だから優先度が下がります。

 

対自然のゲームの勝ち条件は、相手を打ち負かす、という類ではないので(自然をすべて破壊したら自分も死ぬ)そもそも根本的にジャンルが違うので比較しにくいですが、私は対自然の方が好きですね。できれば極めたいです。対人間のゲームをやってる人は、楽しいだろうし、その中での技術も磨かれるのでしょう。それはそれで、本人がそれに価値を置いているのなら、私は特にやめればいいのにとかは言いませんが、余りにも対自然をやってる人が少ないので、全体的にアンバランスかなという印象です。

 

話が逸れましたが、「他力本願」というのは、もう自分の運命は阿弥陀仏に委ねちゃうよ、ということですね。私からしたら、結構ハイリスクなこと簡単にやっちゃうんだな、という感想を持ちます。そんなに阿弥陀仏は信用できる取引先なんでしょうか。こういうことを言うと仏教業界の人から怒られそうですが、元々、仏教が興った環境というのが、「もうだめだ、阿弥陀仏を信じるしかない!とにかく念じるしかない!」という腹をくくらなければいけないほどの危機的な状況だったのではないでしょうか。

 

今、危機的な状況にない人の発想では「自分の運命を委ねる相手は信用しても大丈夫な取引先かな?」というのが自然な発想です。危機が去ったなら、他力本願ではなく、自力でやってもいいのではないでしょうか。

 

自力でやりくりしたとしても、阿弥陀仏を否定することにはならないと思います。阿弥陀仏は、昔から今も変わらずずっと困っている人を助けるでしょう、困ってない人は、自力でやってもいいでしょう。

 

自力でやる人が増えないと、全体としてはきついなーとなるので、教育の力で人材を育てるというのは避けて通れない道かなと思います。