争いシリーズでわかったんですが、
キーポイントは
・欲の正当化
・特殊な前提条件 ですね。これをもっと考えていこうと思います。
ある人間の脳の中で、上記2つがどのような状態なのか、これを知ればその人の「行動原理」をほぼ把握したものと思っていいと思います。
人間の固有の要素は、「行動原理」の他に「能力」と・・・あと何かあるかな?
無いな・・・「持ち合わせた能力を行動原理に従って行使する」これが生命現象の全てです。
正確に言うと、(生命目線で見た)生命現象の全てです。
他の目線でいうと、他に要素があると思いますが、私は人間なのでそれは考えないこととします。
「能力」には情報受信などの受動的な能力も含みます。
この一言にすごい広い意味を詰め込んでますが、今回は「能力」ではなく「行動原理」の方にフォーカスを当てたいと思います。
欲の正当化・・・これは、「人格」の核となる部分です。
通常人は、例えば「金が欲しい」という欲を持っていたとしても、他人から無理やり金を奪うということはしません。
これは「もし自分が相手の立場だったら?」という観点に立って、「正しくない」という判断を下しているためです。
欲が正当化される、行動都度のプロセスにおいては、この相手の立場を考えるという概念がストップします。
その構造には
・相手のことを考える余裕がないほど、その欲を満たすことに夢中になっている
・「自分が相手の立場になっても問題ない」として人間の個体差を無視する
という2種類のパターンが考えられます。
夢中になるような欲がない、かつ、人間の個体差(立場の違い、能力の違い)を考慮して相手を思いやることができる、という人は、自分の中のあらゆる欲を正当化していないことが有り得ます。
私は、現在欲を正当化しないように心がけています。
相手を思いやることが十分にできていない(自分と違う人間を正確にイメージしきれない)ですが、人間トラブルという交通事故を起こさないように安全速度に抑えた走行です。
アクセル全開を経験した私から言うと、この安全運転はつまらないです。
自分が夢中になる欲を満たすために一心不乱になると、辛さを吹き飛ばし、とても強い充実感があります。
しかし、社会に生きる人間として優れているのは明らかに安全運転をする人の方です。
速度を出して楽しいからと言って、事故を起こすようでは社会人失格と言えます。
だがしかし、生物としてまっとうに生きるならば、自分の欲に正直であるべきです。
安全運転では、決してたどり着けない境地、得られない宝というものは確実に存在します。
今、私が悩んでるテーマは、
「欲を正当化」している人間を前にしたとき、どのような対処をすべきか?
という問題です。
その程度が弱いものならば、事故が起こっても支障ないですが、
強く欲を正当化している場合、それを否定すべきか、尊重すべきか、判断が難しいところです。
おそらくケースバイケースで一概には言えないだろうけど、
他人が正当化している欲について、私は、その価値を正しく評価する能力がないという問題があります。この問題は私だけでなく、多くの人に当てはまることだと思います。
私には価値がなくても、人類全体にとっては価値のある「挑戦」である可能性は常に存在していて、その判断軸がないというのは理性優位型の私にとってはちょっと看過できないことです。
正当化された欲の全てが満たされるべき、ではないことは確かです。
・正当化された欲が何なのか推測する方法
・投資先として、その欲が優れているかどうか見極めるための判断基準
今はこの2つを手に入れたいです。
日常生活で人から嫌な思いをしたちょっとしたことも、正当化された欲が隠されているな、と実感しています。
それが具体的に何なのか、推測してもぼんやり捉えられるだけです。
相手の人の人生の歴史を見ることができれば、本質を捉えられると思うのですが、自分の経験をベースにして他人の価値観を推し測る方法しか持っていないので上手くいかないですね。
自分しか知らない私の限界・・・なのかなと少し諦めが入っていますが、
今回ターゲットが明らかになったので、今までにないアプローチ方法があるのではないか、と希望を持ってじわじわ前進しようと思います。