自由意思について考えてみた その1

最近好きなアニメ「アリスと蔵六」のオープニングテーマ「WONDER DRIVE」のサビの歌詞に、

 

ワンダードライブ 駆け抜けてく

フリーウィル 針を振り切って

 

という歌詞があって、フリーウィルって何だろう?と思って調べたら

「自由意思」free will だとわかり、哲学用語が出てきたのでこれについて考えてみます。

 

この世の現象は、生命現象含めて全てあらかじめ決まっているという考え方が

「決定論」で、自由意思はこれとセットで論じられることが多いようです。

 

哲学に興味があるけど、哲学的な方法論についてよく知らないし、あまり興味もないんですよね。

 

私にとって思考とは新たな情報を手に入れるための手段なのに対して、哲学の目的がいまいちよくわからないです。

 

ウィキペディアを調べたら、私でも知ってる哲学者、ウィトゲンシュタインがこのように述べていました。

 

「哲学の目的は思考の論理的明晰化である」

 

つまり、自然界の現象などを解明するというよりは、人間の思考そのものを客観的に観察して、個々のロジックに分解・正しく理解するという趣旨のようです。

 

そういう意味では、「自由意思」は哲学のテーマとしてかなり重要な位置を占めているのではと思います。

 

「哲学」が論理に依存している点が、ちょっと肌に合わないので(論理自体の脆弱性をカバーできていないから)私は私流に自由意思を考えたいと思います。

 

私は思考自体がぼんやりしていても、情報さえ手に入れば問題ないという立場です。

 

さて、自由意思のベースとなっているものは、「行動の選択可能性」だと思います。

 

家に帰って、お風呂に入るか、ご飯を食べるか、私たちは自分で選べます。

間違いないのは「自分で選んでる気になっている」ということです。

 

お風呂に入ろうとして、フェイントをかけてご飯と見せかけてやっぱりお風呂、ということが可能である以上、そこに自由があるというのは自然な受け止め方です。

 

決定論的な立場でいうと、どちらを選ぶか、最初から決まっている。

 

お風呂かご飯か悩む過程も含めて、全て決まっているという説があります。

 

換言すると、この問題は、「意思が計算可能か?」ということになります。

 

今の科学力では不可能です。

 

では将来の進んだ科学力では可能であるか?

意思の働きを解明しないといけないハードルを越えられるかどうかですが、

 

今の時点でわかっていることは、「意思は物質世界に干渉できる」ということです。

 

では物質からの干渉を受けているか?

 

物質からの干渉を受けているならば、意思は計算可能である可能性が高いです。

 

私の直感で言うと、意思は物質からの干渉を受けていると思います。

 

物質の間で熱の交換など行われますが、意思に熱はなさそう・・・つまり、意思は物質と同質ではなく、限定された情報(客観的に見た場合の「情報」)のやり取りしかしていない印象です。

 

意思は、物質から情報を受信して、「ある特定の媒体を用いて」物質側に発信するという活動のことなんだと思います。

 

これでいくと、意思は計算可能な対象で、つまり「自由意思」は存在しないということになります。

 

現時点では「人間に計算能力がない」という理由で、計算不可能、よって「自由な意思がある」と、多くの人の意思が受信している状況です。

 

遠い将来、意思を計算できるかについては、直感的には無理だと思っています。

 

物質のように、触れる、見れるといった観測の方法論が、意思には全く通用しないという点が一番大きいです。

 

一般的な学術的な観測の際は、必ず物質反応を媒体にして行われます。

 

意思を、物質反応を媒体として観測することは、おそらく無理なので今までにない新しい観測の在り方を探る必要があります。

 

物質に依存して存在している人間には一生無理だろうな~という予測をしています。

 

この予想を支持するならば、「自由意思」は存在する、という結論になります。

 

将来的な進歩を是とする場合、「自由意思」についてどのような受け止め方をするのがベストなのか?というポイントで考えると、

 

「『自由意思』は今はあるけど、無いことを証明できるようになった方が良い」

 

という感じでしょうか。

 

おそらく、意思を計算できる地点に立ったら、その(意思を計算する)動機も同時に失うだろうと私は思っています。

 

学者は、論理的整合性という矛しか武器を持っていないので、しばしば手段が目的化してるんじゃないかと邪推してしまいます。

 

私が決定論に興味ないのは、登ったことない富士山のふもとで「山頂に着いたときの達成感は素晴らしい」と言っているようなもので、

 

「山頂まで登ってから言えよ!」とツッコミたくなるんですよね。

 

結果を求めるか、過程を楽しむかの違いかもしれません。

 

新たな重要な情報を得ることで、それまで自分が認識していた世界が、オセロの石ように反転するということがあります。

 

それがとてもエキサイティングだから、情報収集は楽しいです。

 

学者になるほど頭が高性能じゃなくても(富士山をのんびり登っても)感動が道に転がってるので、世界はよくできてるなぁと思います。

 

自由意思についてはこのくらいでいいかもしれないですね。

哲学者の人はこの問題をどこまで掘るのかちょっと興味がありますが、私はもういいやって感じです。さよなら~