「なぜ世界は存在しないのか」感想文 その5

4章 自然科学の世界像

 

<要約>

・「科学主義」とは、「自然科学は現実いっさいの基層(世界)を認識することであり、自然科学以外の認識方法は、自然科学の認識に還元されなければならない」という考え方であり、これは誤りである。「科学主義」が誤りである2つの理由とは、「存在論的には、世界は存在しないから」又、「認識論的には、世界の外の、どこでもない場所から現実を見ることはできないから」

・「自然主義」とは、「自然科学の領域へと存在論的に還元できうるものだけが存在しうるのであり、それ以外のものはすべて幻想である」という考え方である。「自然主義」は、「創造論(神が万物を創造した)」に対抗する効果があるが、超自然的なものを「全て恣意的に作られた想像物」とみなすのは行き過ぎである。

・「唯物論的一元論」とは、「宇宙が、存在する唯一の対象領域であり、世界であるとみなし、物質的なものは自然法則によってのみ説明できる」という考え方である。唯物論者は、認識とは物質反応のプロセスであり、概念はその際に作られる虚構であると主張するが、仮にそれを真とすると、唯物論自体が虚構であることになり、誤りである。

・「科学的実在論」とは、「わたしたちが科学的な理論と装置によって認識するのは物それ自体であって、単に理論的・文化的な構築物ではない」という考え方である。

・「唯名論」とは、構築主義的な理論で、「だれしもが自分の世界を通して、対象に名前を付けて呼んでいるだけであって、対象それ自体を見ているわけではない」という考えである。

・「心的表象主義」とは、「認識とは脳内の電気信号が作り出す像の表れであり、人が住む外界は、実際は素粒子の集合である」という考え方である。

・哲学用語の「主観」とは、「特定の共同体に属するすべての主体(人)に共通している認知機構」のことである。「新しい実在論」は、何らかの認知機構(主観)が作動してこそ接近することができる真理が存在する、という考えをもつ。

・「普遍的な構築主義」とは、すべての事実は何らかの認識体系との相対的関係の中にしかない、という考え方である。この考え方は、「すべてが相対的であるという言明、それ自体」が存在するための準拠先が無く、誤りである。

・「理性の実在論」とは、「学問的に探究できる事実の構造」が、人間の理性それ自体に備わっているという考えである。

・哲学用語の「精神」とは、「意味の理解」である。科学的世界像を信仰して、精神を放棄するのではなく、様々な意味の場における精神の在り様を追求するべきである。

 

<感想>

ふぅ、要約長いですが、色々知識が増えましたね。この要約は、いつか忘れてしまったときに読み返すメモとして使おう。本編に「斜状述語」という言葉も出てきたのですが、上手く言語化できないのであきらめました。多分、「恣意的な言葉遊び」の一種だと思います。

 

この章は、この前までの章で語られたことを踏まえれば、ウンウンそうなるよね、と思うので、新実在論への異論・反論は特にないです。

 

しかし、世の中にはいろんな「主義」があるんだな~と思います。多くないですか?「〇〇主義」が出てきて、それを批判するために、というか正すために、「□□主義」を作りました!というのがお決まりの流れなんですね。

 

私は、もし誰かが「〇〇主義」を出して、その考えに共感する人がいたら、その「〇〇主義派」の人たちは、自分で自分を批判したほうがいいと思うんですよね。

 

違う頭の、他人が批判するから、無駄に話がややこしくなるような気がします。時間経過で、過去の自分の考えを批判できないってことは、サービス終了したネットゲームみたいなもんで、価値がだだ下がりすると思います。常にアップデートしていかないと、「諸行無常の響きあり」でガラガラと崩れるだけです。

 

イーロン・マスクさんは、このアップデートの速度をある水準以上に高くキープする志向を持っているそうですが、この宇宙は情報の海ですからね、直線的に速く進んで、その方向に関しての検討が疎かにならないことと、健闘を祈ります。

 

KENTO TO KENTO YEAH♪