「なぜ世界は存在しないのか」感想文 その6

5章 宗教の意味

 

<要約>

社会学マックス・ウェーバーが言う「脱魔術化」とは、「『自然科学的に観察できる事態だけでなく、原理的にはいっさいのものを支配することができる以上、わたしたちの社会秩序は合理的なものである』と想定してよいのだと、わたしたちが信じるようになること」を意味する。

・「フェティシズム」とは、ひとが自ら作ったものであるのにもかかわらず、作ったひと自身が自らを欺いて、自分がそれを作ったのではないと思い込むことである。

・科学のフェティッシュ化とは、わたしたちが秩序に抱いている期待や、秩序の表象を、ある種の専門委員会に投影することである。しかし、わたしたちがどのように生きるべきかを自分で決める責任を、負ってくれる専門委員会などあるはずがない。

・第一の形態の宗教は、フェティシズムによって、ひとつの「世界原理」が多種多様に生み出されることである。

・第二の形態の宗教は、「無限なものに対する感性と趣味」の表現である。

ユダヤ教キリスト教イスラームの伝統では、第一の戒律で、偶像崇拝を禁じている。これは「崇拝すべき超対象についてわたしたちが何らかのイメージを持つことができる」というフェティシズムからの、脱却と言える。

フェティシズム的ではない宗教における「神」とは、「概念によって捉えきない無限性であり、どんなものも決して無意味ではないという理念」である。又、無限性の中に、意味の痕跡を探求することが大事である。

・人間の「精神」とは、意味に対する感覚・感性であり、その在り方は数多くありうるという自由がある。その精神は、進歩することもありうるし、退歩することもありうる。

・人間である、ということは人間とは何なのかを探求することである。人間の精神は、第一歩として、自分の外にある「神的なもの」という形態の中に、自分自身を探ろうとするものである。

・宗教の源となるのは、いかにしてこの世界に意味(わたしたちが勝手に捏造したのではない意味)が存在しうるのか、を理解したい欲求である。

神学者、哲学者セーレン・キルケゴールは「精神が、当の精神自体と関係があること、そして、わたしたちが自らの可変性を理解していること」を発見した。

キルケゴールの言う「罪」とは、「自らの精神を抹消しようとするような態度を自らに対してすること」である。

・人間であることとは、意味の関連の中に自分を位置づけることである。これはひとりひとりが行うことであり、それのアウトソーシング先としての専門家は存在しない。

 

<感想>

ふむふむ、宗教と、人間の精神の関係がよくわかりました。人間が神的なものの中に自分自身を探る、というのは私も経験があります。

 

私が想定した神は「私にほとんど関心がなくて、大きな力を恐れている」でした。自分の中の物差しで、神的なものを規定してるのは間違いないです。自己投影ですね。

 

ただ、自分自身を探るため・・・というより、精度の高い意思決定をするために、神を想定する必要があったからやってた感じでしょうか。その想定してる神は、すべてを統べているものでしたが、能力的には人間と同じ地平にいる(特定の評価軸で相対評価できる)感じに捉えていましたね。

 

本当の意味で、無限性をどう捉えていたかというと、それは無理だなぁと思ってました。たぶん、そこから、世界は有限だ、という解釈になったんだと思います。

 

有限なら、私でも、誰でも、すべてを知ることができるだろうし、すでに知っている人もいるだろうし、少ししか知らない人もいるだろうし、という感じですね。

 

ガブリエルさんは「無限性に触れて、自分自身に帰る、そして精神を進歩させ、意味の痕跡を探るべき」と言っています。

 

私の場合は、無限性に触れて、自分自身に帰りきれなかったです。世界は有限で広いから、相変わらずアンテナを広げまくって、自分自身が疎かになっていますね。

 

これは反省することにします。で、人間が人間であろうとする営み(意味の痕跡の探索、精神の進歩)は、自分でやるもんだ、他人に任せられるものじゃない、と書いてあったので、この点は賛成ですね。

 

教育で、サポートはできるけど、結局プレイヤーが各々やらなきゃ話が進まないですからね。ここは難しい課題がありそうです。