イスラム教について調べてみた

イスラム教への侮蔑を含んだ小説「悪魔の詩」の著者である、サルマン・ラシュディさんがニューヨークで「芸術の自由」をテーマに講演する直前、ヘイディ・マタール容疑者に首や腹を刃物で刺され、重傷を負った(8/13)ニュースを見ました。痛そうですね。

 

イスラム教をウィキペディアで調べてみたら、ユダヤ教キリスト教イスラム教は共に「アブラハムの宗教」からの派生らしいです。

 

イスラム教は、「唯一神アッラー)がいて、人間の預言者ムハンマドがいて、たくさんの普通の人間がいて、最後の審判で、地球が終わった後みんなが天国にいくか地獄にいくかを裁かれる」みたいな仕組みのようです。

 

一方、キリスト教は「イエス・キリスト」を神の子として扱い、「父なる神」「神の子イエス」「人々に注がれる聖霊」の3つをもって神の柱とする「三位一体」の考えで、イエスも神として信仰する。イスラム教の方は、預言者ムハンマドは信仰の対象ではない。その辺がキリスト教イスラム教の相違点です。

 

最後の審判は、キリスト教ユダヤ教イスラム教も共通していて、この3兄弟が、それぞれ跡目争いをしているような状況のようです。

 

最後の審判」というのはよくわからない(最後の審判の日以前に死んだ人は、どのような扱いになるのかが不明)ので、コトバンクで調べてみると

 

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イスラム教において、最後の審判の日には、天変地異を伴い、すべての人々やジン(鬼神)が審判の座の前に召集され、各人の言行が秤で量られ、「嘉(よみ)された者」には右手に、「永劫の罰を受ける者」は左手に、それぞれ生前の行為が記された書が手渡されるという。(※「嘉(よみ)される」は、「褒めたたえられる」の意味)

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イスラム教でも、すべての人間はいったん死んだ後に復活し、各自の首にかけられた善業と悪業を記録した二つの帳簿の重さに従い、悪業の帳簿の重い者は地獄の上にかかる橋から落下するとしている。

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なるほど~最後の審判までに、死んだ人間はみんな復活して大招集かけられるんですね。

 

これを見ると、イスラム教は「人生が辛くても、神を信じて、善い事して天国にいこうぜ!」という倫理的な価値を持っているんだなと思います。

 

イスラム教信者からすると、何教を信じていようと、(イスラム教の)最後の審判の前ではみんな平等なんだから、イスラム教以外を信じてるやつは頭のネジが外れたいかれポンチだと思っているんでしょう。

 

宗教の価値とは、前述した「倫理的な価値」だけではなく、「他の間違ったバカを叩きのめすことが善行になる(ジハード)」という「暴力の肯定」も含んでいるということですね。

 

だって・・・「生きてて辛いことあったら、暴力使いたいじゃん」「暴力使っても天国に行きたいじゃん」という人間は、一生懸命「イスラム教を信じてると言う」でしょう。その人が最後の審判でどのように裁かれるのかは「神のみぞ知る」です。さぁ、どうなるでしょうか?私は知りません。

 

今回襲われたラシュディさんは、イスラム教を否定するのではなく、イスラム教を都合の良いように解釈してる一部のイスラム教徒を否定するべきでしたね。もしイスラム教が破壊されたら、それを信じることによってギリギリ保っている体制などが、空中分解する懸念があります。

 

私も神について言及することはありますが、それは私が想定する神であって、「アッラーは〇〇」とかいう言い方はしないですね。ちなみに私の神は「人間に関心がなく、大きな力を恐れている」ような存在です。探せばどこかにいるんじゃないかと思います。

 

ラシュディさんは、他人の家の大黒柱を傷つけないで、自分の家の柱を立派にするように動けばよかったですね。

 

イスラム教を信じるのは、苦しみの中にいる証拠。

 

イスラム教を貶めるのは、自信が無い証拠。

 

私は、自信を持って、苦しみをいい経験だったと言えるようになろうと思います。