言葉を紡ぐ動機

私は、まず自分や環境の状況を確認してから、困ることが見つかって、初めて行動に移すという、腰の重いスタイルです。

 

行動力は全然ないし、料理はある程度できるんですが、例えば野山に放置されて、雨風を防いで暖を取って、食料を調達するみたいな事も、「どうすればいいんだろう・・・」とノロノロやって日暮れまでに間に合わない、みたいなことになると思います。

 

なので、行動力・実行力がある人を見ると、すごいな、と思います。行動力が無い事に良い部分があるとすればそれは、行動によるリスク、失敗して害を受けることのリスクだけではなく、成功や失敗に関わらず、「何らかの行動をしたことによる副次的な波及効果についてのリスク」からは無縁なので、安心です。

 

以前言った、「自分が何をやっているのかを正しく把握する」という行為も、より広い視点から見たときの、行動による直接的な効果+副次的な効果を、もれなく把握する、という意味です。これができる人間は、かなり強いです。私はまだ未熟です。

 

私は日記で何をやっているのかというと、「意思決定の在り方」とか「未来予測」とかを捨て身で全力で取り組んできた人間の目から世界がどう見えているのか、を報告しているということです。

 

これって、例えば、森の中で道が左右に分かれていて、どっちが正解の道かわからないときに、私が「じゃあオレ右の方に行ってくる!」と行って、ダッシュして「右の方はこんな感じになってたよ!」と報告の連絡をするようなことで、まぁまぁ意味はあると思います。

 

「周りのみんなと同じ方向に一緒に付いていくだけだから、そもそもどっちに進むか判断する機会がないから、そんな報告あんまり価値ないよ」という人もいると思いますが、まぁそれはそれであり得るだろうな、と思います。その場合は、私の言ってることはスルーでいいでしょう。

 

私は、できればフィールドを全て網羅したい(どんなに広い世界でもできれば時間かけて全て確認したい)という願望があるので、変な考えを持っている人(人気のない辺境の土地)からの報告を見てみたいと日々思っています。それでツイッターとかもやっています。

 

ツイッターを見ていると、言葉には次の3要素を含んでいると感じます。自己満足や不安解消のための「消費的」、情報交換のための「報告的」、対象を操作するための「支配的」の3つ。

 

これらは、すべての言葉の中に含まれている感じで、純粋な消費的言葉や、純粋な報告的な言葉などは探すのが難しいと思います。ロボットみたいな機械的なプロセスを経ないと、純粋な言葉は無理そうです。

 

人間の言う事は、基本的に依存するに値しませんが、例えば消費したいなら、言葉のそういう側面だけ見る、とか、支配されたくないなら、その要素だけフィルターをかけてシャットアウトする、とか受け取る側が工夫すれば、人間の言葉をたくさん受け取ってもいいと思います。「ある言葉の支配的な要素をフィルターで除いたら、何も意味が残らなかった」とかいうことはありますが。

 

私は辺境からの報告を望んでいます。なので自分も報告をします。こういう文化が広まってくれたら嬉しいです。