普通のこととは

私は「~は普通のこと」とよく書きますが、そのニュアンスについて述べようと思います。マイ言語の解説というどうでもいいような情報ですが、言葉は誤って伝わることもあるので、その誤解を避けるためにメモとして書きます。

 

●「普通のこと」の意味

一般的に「普通」というと「常識的な、みんなが共有してる当たり前のこと」、みたいな意味であり、「他者との差別化で価値を上げようという場」においては「凡庸で工夫がない」みたいな意味も持つと思います。

 

私も日常で「これ普通すぎてつまらないね」とディスることはありえますが、日記やツイッターでの情報発信においては、そういう意味ではなく、どちらかと言うと常にポジティブな意味で使っています。

 

私の使う「普通」の意味は、以下のようなニュアンスです。

 

・世界を迷路のように見なし、人間の生命活動を「物理的な迷路内の移動」としてシミュレートした場合の正解ルート。

・多くの人間が難なく通れるであろう大きなストリート。

 

逆に「普通じゃない」のニュアンスを書くと分かりやすくなります。

 

・世界を迷路のように見なし、人間の生命活動を「物理的な迷路内の移動」としてシミュレートした場合の正解ルート、及び不正解ルート。

・異形の性質を持ってるレアな人や、訓練を受けて技術を上げた一部の人のみが通れるであろう針の穴のような過酷なストリート。

 

うーん、これで説明は十分ですね。これだけです。

 

●普通ルートの背景

「この世には『絶対に正しい』ということはない」という考えがあり、まぁ、「絶対に正しい」という概念を人間はそもそも持てないのになぜか言語化してるなぁという感想を持つんですが、この世には絶対とは言わないまでも、『ほぼ間違いなく正しい』ということは有ります。

 

なんでそんなこと言えるんだ?と思うと思いますが、言えちゃうんですね。

 

地球上においては、「逆立ちしたら血が頭に昇る」とか「収入がないと生活できない」とか「みんなが常にハッピーになれない」とか、色々制限がかかっていますね。

 

前の日記で哲学者マルクス・ガブリエルさんの「なぜ世界は存在しないのか」の感想文を書きましたが、マルクスさんは「この世には無数の場が存在するのみで、『世界』という包括的な存在はありえない」みたいな趣旨の考えを著作で述べていました。

 

もし本当に「無数の場」があるなら、私たちのいる地球の場において、場がもっと多数で、乱立してなきゃおかしいんですよね。何もない所にとある場が急に出現したり、そういう事が起こってなきゃ「無数の場が存在している」とはとても思えません。

 

もし「無数の場が存在している」が真ならば、なぜ「私の鼻の上で柿ピー研究会主催のシンポジウムが開かれないんですか?」という質問に答えられなきゃいけません。実際に質問をしていないので、マルクスさんがどう答えるのかわかりませんが、おそらく答えられないのではないかと思っています。

 

そんなわけで、私は包括的な「世界」があると思ってる派です。

 

で、その包括的な世界は、なんでもアリ、神の力で自由自在だと思いますか?

 

答えはNOです。我々地球を含んだ最も大きな包括的な世界があるとして、その世界は明らかになんらかの制限を抱えています。

 

もし何でもありなら、地球上に制限(引力とか、費用収益とか、エネルギーの正負とか)がかかるワケがないんですね。本体が何でもありなら、内部も何でもありになります。

 

でも現実は、全知全能の神でさえも、何らかの制限によって不自由だということです。不自由な神が、人間にも不自由を強いているんですね。

 

で、話を戻すと、その不自由たらしめているルール、というものはガッチリ存在しています。そういうガッチリ決まったものがある以上、「ほぼ間違いなく正しい」という事はそのルールを基礎として、言うことは可能である、ということです。

 

「ほぼ間違いなく正しい」は存在する、後は、人間が、それに辿り着けるかどうかの問題です。

 

私はそれをある程度探求してきましたので、「~ほぼ間違いなく正しい」と自分が思うことをツイッターやこの日記で書いている、ということです。

 

私がヘボかったら、正しくないことを正しいと言ってる頭のいかれた野郎である可能性はありますが、「私が言う事が正しい、正しくない」に関わらず、「ほぼ間違いなく正しい」ことは存在するし、そこに人間が気づくことは可能だと思っていただければ幸いです。

 

今朝の4:41です。未明に日記を書いているのは普通ではないと思いました。