ミックスヒューマン論

私が人体実験が可能なマッドサイエンティストになれたらいいなぁと夢想しています。

 

前回の日記で人間は操作性能がへぼいと言いましたが、与えられたものがへぼかろうが、とりあえずあるものでなんとかやりくりするのが正しい姿勢だと思います。

 

人間の身体が操作しにくい、みんな不器用、不器用なツケを弱者が苦しみ死ぬことで帳尻を合わせている、そんな状況であるなら、まぁいいでしょう、じゃあそっからどうしようか、というのが腕の見せどころです。

 

そうなったら、人間の研究・・・哲学とか人文学とかの価値が再確認されるべきフェーズに入っています。

 

理系の人は、「真理」というユートピアが人間とは別に存在していて、そこに近づいていくことが正しい、愚かで過ちを犯しがちな人間主体はほうっておこう、努力して賢くなることがもっとも人道的なのだ、みたいな感じだと思います。

 

その偏った志向のおかげで科学技術が発達したし、量子物理学とかも盛んになったし、良いことがあったなぁと思います。すばらしい成果ですね。

 

ただ私は、その一方向の走行(あるいは逃走)が、好ましいとは思いません。目の前の方に魅力的な餌があるという事実は、その餌を得られる道が正しいという根拠にはならないからです。

 

真理って言ってるのに、その真理が「愚かな人間」を包括できないということはどうゆうことでしょうか?ゴミ箱に臭いものを捨てつつ真理を追究するとは、なんとも人間らしい生活感にあふれた態度だなぁと思います。

 

ということで、私は人体実験を経て、人間の操作技術を深めることが重要であると表明します。

 

人間がロボットと違う点は、社会性がある点だと思います。ロボットの場合は、10体あったら、1×10の単純な複合にしかなりません。しかし人間の場合は、相性とか思想の違いとかがあって、単純な複合にならず、最悪殺し合ったりしてロスが出る場合が多いし、あるいは逆に、違う者同士がお互いを補完して相乗効果を生む場合もあります。

 

こういう、人間を混ぜ混ぜすることにより何が起こるのか、それをどのように制御するのか、という論点がこれからホットになると予想しています。これをミックスヒューマン論と名付けました。

 

なぜこれが熱いのかというと、地球がミックス状態だからですね。

 

もし私が地球の創造主だったら、人間に何かやらせたいと思ったら、それに適した同じ個体を必要な数用意して、作業してもらう、とします。しかし実態は、1人1人違う個体が、混ぜ混ぜされ、その過程で破壊したり傷つけあったりしています。

 

つまり、おそらく「人間に何かの仕事に従事して成果をあげてもらおう」という類の趣旨ではないぞ、という推測が成り立ちます。もし真理へ近づく仕事に従事してもらいたいなら、ジョン・フォン・ノイマンを70億体用意すればいいだけですから。その方が圧倒的に速いし、確実でしょう。(これが創造主にできないと思っている人はいるでしょうか?)

 

なので、この人間混ぜ混ぜ(不信や欲望にかられて、お互い殺し合いをしたり差別をしたりする営み)自体に、何らかの価値があると思うのが自然なことです。

 

そこでは、精神的エネルギーを通貨で表現した場合に、借金の押し付け合い、返済できる人は返済する、の通貨フローの混ぜ混ぜであると見ることができます。

 

この混ぜ混ぜに注目して、それを実験し、ミクロなメカニズムを解き明かす存在が、私の言っているミックスヒューマン論です。

 

実験では30人くらいの小グループ単位で、何かの仕事を与えて、その過程での「混ぜ混ぜ具合」を観察するのが適当だと思います。

 

ここで「ならず者」を30人にしても、あまり面白くありません。同じ人間が揃っても、単なる複合、歌で例えると倍音になって、調和現象が得られません。

 

よって、30人中、ならず者4人、温厚な人10人、ゴシップ好き5人、目立ちたがり屋3人、とか人の性質毎に属性を設けて、好ましいミックスや好ましくないミックスを研究しよう、ということをやってみたいです。

 

その結果、ならず者が改心し社会を信頼するようになった、となればそれは調和が生み出したゴールドみたいなもので、現実社会に適応可能になります。

 

ワンチームで、誰一人落伍者を出さない、プレイヤーがそういう認識を持って能動的に混ぜ混ぜすることで、いい結果が出た!となればそれは値千金でしょう。

 

人間は素材だけじゃなくて、環境によってバリエーションを生むようなので、その環境づくりに集中すれば、相互理解はそんなに難しくないと思っています。