決め手は非言語

私はあまり語彙が豊富じゃないですし、難しい言葉も知りませんし、誰にでも理解できる表現が私の目的に合致しているという意味で最も好ましいと思っています。

 

文学、となると、一般人の手垢が付いてないような洗練された言葉も使えた方がいいんですけど、それはやったことがないのでよくわかりません。

 

言葉は面白いもので、人に文章を書かせると、その人の頭の中の状態を映す鏡のような機能があります。

 

ネット上や書物には色んな多くの文章があるので、いちいちそれに対して「この人の頭の中は~?」と探索しているわけじゃないです。

 

ただ、たまにめちゃくちゃ硬い言葉ばっかりの文章を見たりすると、「鎧を着た重騎兵のように自分を守ってるなぁ」と思ったり、柔らかい言葉ばっかりの文章を見ると、「やさしいのが嬉しいんだなぁ」とか、その人の個性を垣間見て楽しんだりしています。

 

私は言葉はけっこう大事にしていると自分では思っていますが、その利便性というのは、かなり限定的なものだと思っています。

 

情報は、過不足なく、わかりやすく伝われば十分なので、言葉はその道具としてその目的が達成するくらいに言語を操れればいいかなぁくらいの重みを置いています。

 

世の中には、言葉の世界を大事にしている人(読書好きな人とか)もいるので、そういう人たちにとっては言葉は酸素と同じくらい大事なものでしょう。

 

しかし言葉は、世界を人間が好きに斬ってるだけ、なので、あんまりそれに依存しすぎなのもバランスを欠いてるなという印象を持ちます。バランスを欠いてること自体は即ダメというわけではありませんが。

 

私は人の言葉をよく観るときは、言葉そのものを見るのではなく、どういうシステム(頭の中)からアウトプットされたのか、という点を注視します。

 

なぜなら、そのシステムの情報そのものを知りたいからです。一種のコレクターですね。

 

頭の中のシステムが把握できれば、「未来のこういう状況下において、この人はこう言うだろうな」ということがわかります。「こう言うだろうな」がわかるということは「こういう行動をするだろうな」ということも予見できるということです。

 

それプラス、未来予測をして、未来の状況を予測できたら、「未来においてこの人はこういう行動を取るだろうな」という予測もできます。

 

その予測をしておいて、実際にそうなるかどうか答え合わせします。もし当たったら「やっぱりな」となるし、もし外れたなら、自分の予測のどのパーツが不完全であったのか、特定します。

 

たとえば未来の状況は予測通りで、その人が予想とは違う行動を取ったとしたら、その原因は「頭の中を見切れていなかった」ということがわかります。

 

この辺は当たり前のようで当たり前でないかもしれないので書いていますが、予測をして、「それが当たっても外れても、予測能力の精度が高いことor精度が低い原因を確認できるように」すると、まるで未来予知能力者の如く「推測能力」がブラッシュアップされます。

 

あくまで「推測」であるけど、それが実用に耐えられるくらいの高い精度を持たせることができるということですね。

 

で、その推測を支えているのは、言語操作ではなく、頭の中での計算です。最近の知見で言うと、もしかしたら量子コンピューターのような計算かもしれません。

 

言語を使わずに計算している様は、なかなか表現できないんですが、この他人からは見えないし、自分でもよく見えてない領域での計算を鍛えることは、不確実な未来と対峙する際には、おそらく必須の条件になると思います。

 

未来なんて知らねぇよという人もいるでしょうけど、未来が見えると、やってて楽しいです。