この前もちょっと触れたことで、焼き直しの日記になりますが、
私は哲学的なアプローチを重視しています。
今、テレビで父親が録画していた教育番組は「量子物理学」の近代(オッペンハイマーとかアインシュタイン以降)の紆余曲折歴史を解説していましたが、
「量子もつれ」という、宇宙の遠く離れた量子同士が、「なぜかシンクロする」という作用の概念について、
最初に提唱者が論文を発表したところ、この着想は「子供じみたくだらないものだ」と、研究者コミュニティでばっさりと軽蔑され敬遠されたようです。
しかし、数十年後に、「観測方法を工夫することによって」「量子もつれの有無を数学的に証明可能」だと言った研究者が脚光を浴び、ヒーローとなったとのこと。
結局、論理の事実として、「観測不能な対象は、解けない」ということが言えると思います。
このヒーローになった学者さんも、「観測自体に問題の種がある」という発想によって、なんとか現状可能な(できるだけの)観測方法に対応させた形での、
論理展開をしている。
他方、「量子もつれ」論をバッシングしていた古い学者さんたちは、
自分たちが大事に大事に育てて、信仰を持っている「物理学(という歴史上の文脈)」が、
「観測の能力限界」という、脆弱な基盤の上に築き上げられた、ある意味では「(砂上の)楼閣」である、という側面を「見ないふりをして」
「オレたちの物理学は絶対である」という宗教に入れ込んでいた、ということでしょう。
このように、論でも文明でもそうですけど、
基礎部分が、非常に重要になってきます。
「基礎部分が、非常に重要」というよりも、
10階建てのビルは、建てるときに基礎の上にしか立たないので、
そして、例えば8階フロアは「何も無い空宙」で、9階より上は、空宙ベースで浮いています、というような建築が可能で在れば、また話は違ってくるのですが(そうなると「9階より上」は「1~7階とは別建築」という解釈が通常でしょう)、
実際は、0階の基礎部分→1階→2階→3階・・・
と積み上げされているわけですから、
「物理学は、なんと300階建ての超高層ビルだぞ!」「エジプトのピラミッドよりすごいだろう!」
という信仰も(その学者たちが現実に悲観して窮しているのであれば)ありえるのですが、
その超高層ビルがその基礎・・・「観測能力の限界」に、依存しているので在れば、
何百階建てであろうと、その基礎限界によって、「できないこと」も当然ありえるのです。
という事情もあるので、ちょっとネジ飛んでるなら、「300階建てスゲー!」でもいいし、まぁまともに考えるなら、基礎部分をいじくる哲学的アプローチを重視するだろうなと思います。
で、ここまではけっこう「豆知識」的なトピックなのでさらりと流しておいて、
人間の存在論の面の基礎として、けっこう重要なことがあります。
それは「個人」なのか「集団」なのかということです。
個人が基礎ということは、「自分」と「それ以外全部」の、
白い紙の上に、鉛筆で「チョン」と点を打ったような絵図です。
点が「自分」で、それ以外の白紙部分が「自分以外」。
世の中には、独善(自分さえ良ければ他人がどうなろうと知っちゃこっちゃねえよ)という概念もあるように、この「自分」対「自分以外」という概念は、けっこうポピュラーかと思います。
そして同時に、何か共同体とか、仲間とか、上意下達が効いてるトップダウン型組織とか、
そういう2名以上の「集団」が先に立って、「自分はその一部である」という概念も、またポピュラーです。
この集団ありきの自己存在論というのがもし無いと、
トヨタ本社と下請け会社群が構成する「巨大なお城」もお城として機能しないし、
ヤクザさんが好き勝手に「親父」に刃向かって、「意味の無い純粋な殺し合い」が頻発して、なんか悲惨なことになったりするわけなので、
社会にとって、この「集団への帰属意識」は、秩序立たせる、安定という果実を得るためには非常に重要になってきます。(当たり前ですが)
私はあんまり集団でなんかやったことはないので、仕事もそんなにできないし、最低限のパフォーマンスしか出せないので、「ちょっと社会不適合者」であり、反省すべき未熟な人という側面があります。
ただ、この「集団」を、存在論的に、ベースにしてしまうと、ちょっとやばいことが起こります。
簡単に言うと、
「集団の都合」がとっても先鋭化し、分断作用が強力に働きやすい、ということです。
例えば、キリスト教。
キリストさんは、「我々人間は『罪人だということ』認めた方が良い」と言っていますね。
それは何かというと、人間側がその不利益を飲み込むことによって、「神」と「人間」の、構造的利害対立を中和して、穏便にしようよ、ということです。
「罪人」であることを拒んで、神にぶっ叩かれるよりも、
「罪人」であるという嫌な事実を飲み込んで、神に優しくしてもらった方がいいっしょ?
っていう取引です。
確かに、構造的利害対立関係にある、「天上人」と「人間」が、「ある程度、和解して利害の一致を見て、『味方同士、同一集団に帰属』することが可能で在れば」、
オレたち罪人かよ!?ちょっと嫌だけど、それさえ飲めば、平和だし、楽だし、穏便だし、いーんじゃね♪
ってなりますけど、
じゃあ、その強権を振るっている「天上人」が、単なる中間管理職だった場合、やばいんですよ。
「天上人(部下)」「天上人(上司)」がいるとしたら、
その「天上人(部下)」を、「おぉ、あなたは我々の神だ!」と崇め奉り、
「あなたの忠実な僕となり、神の御心に反する悪魔と戦います!」となったら、
今度は「天上人(部下)」と「天上人(上司)」の、バチバチの戦いになるんですよ。
つまり、「地上の平穏」をテイクして、「天上の混乱」をギブしている取引になるということです。
これを聞いて、「青ざめる」人はどれだけいるでしょうか?
そして、その逆に「そう、だからこそやってるんだよ(ニヤリ)」とする人はどれだけいるでしょうか?
私はその割合比率を知らないで書いているんですが、
この日記で言いたいのは、
自分の存在が「集団」ベースになると、ついつい、「自分が帰属している集団の利益を追求」しがちですよね。
それが達成されれば、「自分は嬉しいし」「集団全体も嬉しい」のだから、ウインウインじゃないか、という発想は、決して愚かな発想ではないのですが、
構造的に、その「賢明っぽい」「穏便っぽい」志向が、その集団外の世界において極めて危険な混乱を引き起こす結果に「ほぼなる」という事実があります。
だから、存在論的な「集団ベース」は、「危なっかしい」のです。
Z世代とかは「みんなのために」が好きで、逆に言うと「オレがオレが」の自分勝手なことは「絶対にやりたくない」「愚かだ」と思っている人が多いかもしれません。
私も、どっちかというと「みんな仲間とお手々繋いで、穏便に、安定したい」という気持ちが強いですが、
そういう傾向は、危なっかしいよ、という話でした。
その危なっかしさを回避するためには(回避したいと願うのならば)、
まず、「基礎部分に」「集団を置く」のは避けた方がいいです。
「2階、3階に」「集団を置く」のは大丈夫です。
そういう「矛盾した対立項のミルフィーユ」みたいな建築をすると、より、現実と一致します。
ここにも「現実」という「集団」を見ることができるので、
「現実ベース」も、危ないのですが、その辺は詳細ははっきりわかりません。
わかりませんが、
「オレはオレ」「それ以外は他人」という、シングルプレイヤーとしての認識が「無い」というのは、けっこう「やばいやつ」になりがちです。
自立するのは意識的にも、実質的にも、難しいですが、
「オレはオレであるけど」「この集団に(○○%)帰属するぞ」
というミルフィーユ構造を建築すると、比較的安全です。
絶対真理じゃないですよ?緊急避難の駆け込み先ではないです。こういう情報発信によって、手探りで微調整したいからこのように書いています。
「集団ベースが当たり前だ」という危なっかしい考えを持っている人がいれば、
その人は、こういう情報を、何らかの程度で、養分にして欲しいと思います。
おわり