確率って、確か量子を観測した瞬間に、位置が2パターンに分かれるとかなんとか、
よく知らないのですが、確率論は便利なもののようです。
よく、宝くじで、当選金それぞれの確率が○○/△△だから、期待値が払った金額の1/2で、丸損だね、というロジックを目にします。
まぁ、そうなんですけど、
じゃあ、「宝くじ(購入&当選)現象が、確率論で貫かれているか?」については、実際の所「人それぞれの自由」であるというのが哲学的なアプローチです。
「だって、確率の概念で、計算したら、現実もそうなるじゃないか」
はい、だいたいそうなりますね。
「それならば、確率論の正当性が問答無用で認められるじゃないか」
それを認める認めないは、色んな人それぞれのさじ加減ひとつです。
数学の確率論で、実際の現象を未来含めて解くことができる。
私は、それは「たまたまそうなってるだけかもしれませんよ?」と言います。
言いながら、「競馬はやっぱり穴狙いが期待値高いな」とか判断して、穴馬複勝とかいう馬券を買ったりします。(最近は買っていませんが、数年前に一度競馬場に行ったときはそのように買って、微妙に黒字でした)
確率論は確かに便利で、「人類の物質支配能力、物質の並び替え能力」を高めるという点で言えば、実効性があり、有用です。
ただ、「じゃあ確率の概念が、万能かというと」そんなことはありません。
現象という対象を、ただ、そのように見たら、なんか合致しているように人間視点から見えているだけです。
こういう基本的なところをきっちり押さえていると、
「お前確率も知らねぇのか、バカだな~中学校からやりなおせば?」ということは軽々しく言えなくなります。
当人が、「確率を信じない」「そう見ない」のであれば、それはそれで全く問題ありませんし、愚かだということにはなりません。
私は、「あるときは確率論を使わない、またあるときは確率論を使う」という、ナイフの出し入れみたいに確率の概念を扱っています。
完全な、道具、「人間の持ち物」レベルのものが「確率の概念」です。
結局、料理をするときでも、切れ味の良い包丁があった方がいいのは明らかですが、目的は「美味い料理を作る」ことですから、
その目的に叶うのであれば、「切れ味の良い包丁」じゃなくても「木の枝」でもいいわけです。あるいは「空手」でもいい。
木の枝で料理をしようとする人を、あなたはバカにできるでしょうか。
「そんなんで材料を切れるわけねぇだろ、グチャグチャになるわ、あほか」
確かに、料理ができないのであれば、それはミスですが
木の枝で美味い料理を作る人を見たら、考えを変えると思います。
「えっ・・・」
となると思います。
持ってる道具、使えるカードが優れていることは、有利ですが
人間としての目的、例えば幸せになる、とか、達成感を得る、とか
その目的に叶っているのであれば、道具がへぼくてもいいのです。
私は、へぼい道具しか持っていない人を、愚かだとは思いません。
それを破ってしまうと、「良い道具揃えるゲームプレイヤー」になってしまうからです。
そういうコレクターになるのもひとつの道ですが
それはあんまりメインストリートには成り得ないな、と思います。
私は、良い道具じゃなくても何でもいいから、目的を達成できたらいいなぁと思っています。