建前の力学

私はパートナーの女性から残念ながら「子供っぽい」と思われているんですが、

 

多分ですけど、

 

日本の1980年代から最近における「大人」っていうのは、建前の裏にありのままの(ドロドロしているかもしれない)本音を胸を張って存在させるという趣旨なんだろうな、と思います。

 

テレビの食べ物のCMを見てても、「健康に良いという保証がない」「あるいは健康に悪い添加物が入っているかもしれない」ような商品を、

 

とっても「良い印象(建前)」で、表に出しているじゃないですか。

 

つまり、「建前の印象さえ良ければ」「実態が喰うか喰われるかのある種のアタックであっても」「いいんじゃん!」っていうノリなんですよね。

 

一方、私は「実態の方しか見ていない」、あるいは「積極的に実態を看破してしまう」ので、

 

実態を隠しきれていない「陳腐な建前」を見ると、「お寒いことやってんな(意味不明なことやってんな)」と思ってしまうのです。

 

つまるとこと、

 

「陳腐な建前」メーカーである「大人」にとっては、

 

「印象が良い」っていうのも意味あると思うんですけど、その裏にある「オレ(わたし)の卑怯で醜いドロドロとした欲望」も肯定されることで、

 

「表も裏も両得、ダブルハッピー!」って感じで、

 

楽しかったんだろうなぁと思います。

 

で、最近の時代的な変化においては、このやり方が否定されているように見えると思いますが、

 

どのような否定かというと、

 

「実態」が、自己肯定の文脈じゃなくて、物質的な側面の文脈に乗ってきた

 

ということです。

 

視点が変わってきたということですね。

 

なので、別に自己肯定したければ自由にすればいいのですが、

 

問題は「自己肯定」に社会的・個人的リソースをつぎ込みすぎて、現実への対応(物質の組み替え作業)が、致命的に崩れてきているということです。

 

現実への対応がなぜ重要かというと、当たり前の話なんですが、

 

例えば「トラックが荷物を運べないと」

 

「あらゆるサービス・産業が、麻痺する」じゃないですか。

 

これはちょっと想像すれば簡単に理解できると思いますが、

 

物をA地点からB地点に運べないと、お話にならなくなってくる。

 

そのお話にならないような状況が、実際に起こっているというだけの話です。

 

だから、「ちゃんと物質動かそうよ」、「効率的に組み替えやろうよ」という至極当たり前の話なんです。

 

しかし、これは「印象の話」でもないし、「自己肯定の話」でもないです。

 

現実は、それらとは関係がない分野なんですね。

 

でも、「印象」や「自己肯定」に注意とリソースを集団的に注ぎまくった結果、「現実が無視された」という現象が起こっていた、ということです。

 

なので、「印象」も大事でしょう、「自己肯定」も自信を持って胸張って生きるのには大事でしょう。

 

それはあんまり変わってないし、それは別に問題ないのですが、

 

「それだけに注目するのは」「生物的にけっこうトチ狂っているので」

 

「物質の組み替え作業」もちゃんとやろうよ、の会が始まっているということです。

 

「実態」を、あるべき姿、適度なバランスを持たせて、お話になるレベルにしましょうね、という趣旨です。

 

で、「実態」が整ったら、それに見合う「建前ver.2.0」みたいなのが生まれるでしょう、という流れです。

 

「へぼ実態」に対応する建前は、もれなく「へぼ建前」「ちゃんちゃらおかしい小芝居」にしかなりませんので、

 

「ある程度ちゃんとした実態」に合わせた、「ちゃんとした建前」を作っていくだけです。

 

私は、ありのままに思うことを日記に書いていますが、

 

実は、このありのままの「素の私」っていうのは、

 

実は「建前」なんですよ。

 

こういうとホラーかもしれませんが、「素の私は、建前」です。

 

恐ろしいでしょう?人間の人格、その人格が紡ぐ言葉なんて、もれなく建前ですよ。

 

私の見ている「実態」とは、そういうものです。ちゃんとしてますよ。

 

もちろん私はそれを見ているだけで、0から作ったわけではないですけどね。

 

人間として生きるなら、物質(ヒト、モノ)は無視できない実態だと思うので、

 

まずはその組み替え作業をちゃんとやりましょうよ、の会です。

 

「物質組み替え作業」と、「印象作り」と「自己肯定」は、両立できますので、それは個々人が自由にやれば良いと思います。

 

あと~話が逸れますが、

 

私、「承認欲求」って言葉、違和感があるんですよね。

 

「承認されたい」って欲が一般的に存在することは否定しませんが、

 

それって、前提として

 

「私なんていないほうがいいんだ」と思うような刷り込みが強烈に行われてきたってことですよね。

 

「承認欲求の欲がある」という現象よりも、

 

「そういう欲が高まるほどに、多くの人が強烈に自己否定の目に遭ってきた」という事実に目を向けるべきだと思います。

 

18歳くらいの時の私のメソッドとしては

 

「私なんていないほうがいいかもしれないけど」

 

「ご飯食べて生きてれば、手は動くし足も動く」

 

「よし、私は存在してるな、大丈夫だ」

 

という物質依存の戦闘態勢でした。

 

言いたいのは、これを真似してください、ではなく、

 

注目する先、視点を変えれば、どのようにもなる、という一例として挙げています。

 

新しい視点でがんばってたら、

 

忙しくて自己肯定や自己否定どころじゃなくなってきたりしますよ。

 

おわり