許し道

前の日記で、「NOT合理的・NOT建設的」な感情も許していくぞ!と書きました。

 

人間がやる論理とは、何らかの基礎要素「欲望や感情、肉体など」の上に、建築物を構築するようなものです。これらの基礎要素は、現実世界で例えるなら「土地」みたいなものですね。

 

学者さんの中には、たまに、この土地をまったく考慮せずに、建築物の複雑性とか、内装インテリアの優美さ、快適さなどだけを追求している人がいます。

 

建築された建物部分は論理で構成されていますから、どんなに工夫をこらして大きく頑丈な建物を造り、細部に神を宿らせても、論理の性質上、必ず基礎と無矛盾になります。

 

心の奥底で、こうありたい、という「願い」(この願い自体の正当性は論理的に担保されていませんが)を叶える目的志向で、論理展開されていくことが、言葉を紡ぐ前、一番最初から決定されているというゲームです。

 

だから私は「有名な偉人が言ってたから」とか「他の多数がそう思ってるから」という理由だけで、その論理を信じることはしません。

 

いかに堅牢な論理であっても、基礎がへぼければ、そのへぼさを補うための論理武装にしかならないからです。結局、あれこれレトリックを弄したりしても、それは脆弱性を見えにくくする目くらましだな、と思っています。

 

ただ、今の私は「許し」を始めた初心者ですので、今もそれも一つの形かなぁと思います。

 

少し愚痴を言うと、「質的に高水準の教育受けてきて、努力もして、そのアウトプットが、自己満足の作り込みか・・・」という落胆があります。

 

しかし、それは単に私が一方的に過度に期待した結果の「落胆」なので、最初から期待しなければ済むことです。そういう人もいてもいい、何もダメな事なんてないんだから。

 

人間が論理を扱う際に、この基礎問題ってかなり根が深くて、難しい問題に分類されます。世の中には確実な事は何一つない、ので、基礎を頑丈にする材料に乏しいからです。

 

私の若い時は、「肉体(物質)」依存で、それを基礎にしてきました。

 

物質は固いけど、絶対的じゃないので、リスクはあります。そんで、色々あって、今の基礎は「意識」ですね。自他を分ける観測点としての意識を基礎にして、論理を構成しています。

 

私が「人間目線の主観」を重視する理由は、この観測点としての「意識」がめちゃ強いからですね。意識から見て、世界がどのように見えるか、というのは、最も根源的な問いに繋がっていて重要です。

 

どのように観測するか、が重要であって、自分以外の世界・・・環境は問わないんですね。

 

もちろん環境が良かったら・・・例えば会社員の毎日の通勤ラッシュがサンリオピューロランドのパレードみたいだったら、毎日ウキウキするし、楽しくていいね、となるんですが、それは生きる糧になるというだけの話です。

 

「楽しかったら生き続けたいね、楽しくなかったら死にたいね」という文脈における、生きる糧を効率よく手に入れるかどうか、というテクニックの問題なのでちょっとそれは先の話です。今はその前段階の話をしています。

 

前段階としては、「どんな観測をしても(ありうるすべてのパターンの環境にいても)なんらかの反応をする」というのが意識の仕事です。

 

絶望して死なない、ということも大事だし、適切な対応をしてしのぐ、ということも大事です。

 

どんな環境でもちゃんと観測する、そういう意識となるには如何すべきか?というのが私のテーマですし、人間のテーマだと思っています。

 

でも、そんなの関係ないよ、自分の環境を快適にするのが楽しいんだい、という人もいるでしょう。

 

結論としては、それでもいいよ、何でもいいよ、ということですね。

 

別に他人が間違った方向に進んでたって、私が間違わなければ私に害はありませんから。ただ、安心して死地に向かっている人を見ると、「だいじょうぶかなぁ」と思います。

 

とりあえず、それぞれがベストを尽くせたらいいなと思っています。