前の日記「時間とラジオ」で、もし人間が宇宙の時間を巻き戻ししたらどうなるか、という妄想をしました。
そのときは、「滝の水が下から上に流れる」「人は後ろ向きに歩き、本人はその変化に時間を感じるが、違和感は感じない」と書きましたが、これはちょっと不十分だなぁ(妄想として作り込みが甘い)と思ったので再考してみました。
まず、滝の水ですが、うーん、やっぱりそうなるわなぁと思います。
人は後ろ向きに歩くでしょうけど、そこで、例えば立ち止まる、とか人間の自由意志が介在する余地があるのでしょうか?この「自由意志」と「時間」の関係について、何も考えないで言ってたので、これについて考えると良いことがあるかもしれません。
私は数年前の日記で自由意志について言及していました。
その時書いたのは、「意識と物質で情報のやりとりをしているならば、意識は計算可能、よって自由意志は存在しない」「ただし、人間にはその計算能力を将来的にも得られないので、能力的に計算不能、よって現時点から人類滅亡までの間は自由意志は存在する」ということを書いていました。
もし計算できないなら決定的ではないし、もし計算できるなら決定的、その能力の保有・非保有に依って自由意志の存在・非存在が決まる、といった論です。又、今は計算不能でも、将来的には計算できるような方向に進むのがいいよね、とも書いています。
なるほど、我ながら的確なところをちゃんと突いてるなぁと自画自賛したところで、じゃあその自由意志と時間との関係を考えてみます。
結論から言うと、自由意志は無いので(人間視点では自由意志はあるが)、やっぱり巻き戻したときは、問答無用で後ろ向きに歩くしかないというものになります。
しかし、現在→未来にかけて、人間目線では、自由意志があるように見えている。それが過去←現在の流れになったら失われるというのは不思議な話です。
その違いとは何か?それは「許容された自由度」の違いだと思います。
遠い遠い未来には、おそらく宇宙も消滅するでしょう。つまり宇宙は何かから始まり、何かへ終わる旅だということです。
その終着点に到達することが可能ならば、道中でどのような変化を重ねても許容されている可能性が高いです。それが「許容された自由度」であり、時間を戻したときには無い要素だと思います。
「許容された自由度」の範囲内で、私たちはふいに右手を挙げたり、駅で電車待ってる間にボックスステップを踏むことができます。
つまり、私が数年前に言っていた「意識が計算可能であれば自由意志はない」は間違っているかもしれません。
今までのことをまとめると、「大きな決定的な流れはあるけど、許容される範囲である程度の自由もある」という感じになります。折衷案みたいになりました。
なぜ、自由という「余白」があるのか?それは「その余白に自由に書き込んで欲しいから」でしょう。これだけが目的じゃないかもしれませんが、複数ある目的のひとつであることは違いありません。
人間は創造主から「自由を得て、さぁお前はどうする?」と問われ、観られているのです。
なので、自由をガンガン活用したやつが勝ちです。自由をガンガン活用するというのは、「何かを実行する」&「それを実行するだけの準備を整える」の意です。
自由が大きなケージに囲われているのではなく、決定的な流れの内部に境界線無し(シームレス)に自由があり、自由は不自由からの干渉を常に受けています。
なので、「自由になってから何をするのか」も大事ですが、それを実現可能にするような準備行動も大事になってきます。
例えば、「世界から戦争を無くして人間全員と友達になりたい!」と言っても、ロシアみたいな国があるのならば、武器を取って戦って勝たなくてはいけません。
この場合は求めている自由度が高すぎるので、決定的な流れから干渉を受けて、ロシアが活き活きとするような環境に変化するかもしれません。
このように、自由を得て、自由に生きるとは、多層的な障害が待ち受けているハードモードな戦いとなります。
普通のことをやって生きていたら、そこで勝つのは無理でしょうね。ただ、「こういう状況で、人間がどういう行動をするのか?」それを観られています。
逃げるのか、戦うのか、躱すのか、ぶつかるのか?
正解の答えは、全部やることですね。逃げるし、戦うし、躱すし、ぶつかるし、あと、洞察するし、見切るし、投資するし、創り出すし、死ぬし。
麻雀とかやってる人はわかると思いますが、「押し」も「引き」もどっちも使いますよね、それと同じで、あらゆる状況で、「押す」のか「引く」のか「そこでお前はどうするんだい?」という問いを常にかけられ、観られているということです。
その必要がなければ、自由を与えられる理由がありません。それでは、許容された自由を拡大しつつ、自由の中で何をすればいいのでしょうか?
それは自分自身で決めることです。ちなみにプーチンは「ウクライナ人を残虐な方法で殺す」という選択をしました。それは彼が決めたことですが、それもよく観られていることでしょう。