人間は環境に対応しようとして、工夫し、学んで、実行力を得るものだと思います。
となると、強い人間とは、環境に広く対応するか、又は深く対応するか、あるいは広く深くバランス良く対応するか、いずれかの方向性があり得ます。
一番良いのはバランス型ですが、少数の者は圧倒的深く、又は圧倒的広く、いくのも許容した方が良いと思います。
そういう意味では、2つのことが重要になってきます。
ひとつめは、義務教育やインターネット検索などによって広い知識を得ること。ふたつめは、深い知識を必要とされる環境に身を投じること。
前者は、すでにあるもので万全とはいい難いですが、環境は整ってきていると思います。
大事なのは後者で、深い知識を必要とされる環境が、万人に提供しきれていないという状況があり、この点は改善すると良いと思います。
大学以上の教育機関で、深く知を探求する場はありますが、現状では「ある程度お金があって、かつ、それをやりたい人だけがやっている」という感じだと思います。
そうではなく、すべての人間が環境と深く対峙する場、というものを積極的に提供するべきだと私は考えます。
例えば私は今数学をノロノロ勉強していますが、もし私が宇宙開発の現場に入ったら、数学がわからないと何もできないので、ダッシュで数学を学ぶと思います。
知的好奇心的には、数学にはそれまで興味はなくても、「仕事で必要だから」というモチベーションで、やる気を持って取り組めるという形です。
数学的センスがない人は、現場で役に立たないから、という理由で、実際にはそういう人が宇宙開発事業に関われる機会は、ほぼ無いです。
しかし、深く環境に対応する、という人間教育の観点でいうと、あまり役に立たない、活躍できない人であっても、深度のある現場に投入することで、自分の能力を開花させることができるというメリットがあります。
資本主義的な観点では、仕事のできる人を雇った方が競争力が付くし、言い方を変えると仕事のできない人を雇うと競争力が落ちる、企業として存命できない、という状況だと思います。
教育的な観点では、これはちょっと問題があるぞ、という評価になります。仕事のできない人でも、教育すれば必ず質が上がります。その過程で得た力は、当の仕事だけに限らず、人格形成や、子育てや、コミュニケーションや、選挙の投票行動などの「社会活動の効率化」に大きく役立ちます。
そういう意味で言うと、資本主義的な考えのみで社会をドライブさせるというのは、けっこうへぼいな、という感じがします。
資本主義は資本主義で、そういう領域もあっていいのですが、社会公益性を追求する意味での社会主義的な仕組みを、社会に取り込んでいく、ベースにする、というデザインが優れていると思います。
現状においては「金にならない、意味があるのかよくわからない」ようなアクションにこそ、価値があるのではないでしょうか。
昨日も言いましたが、システムの盲点にこそ、目を向けるのが強い行動だと思います。