未熟なペットと飼い主

人間の管理について、「未熟のまま」色々な道に進ませる、というやり方は、私は気に入っていません。

 

自分事だと、未熟なままだと上手くいかないことは確定するし(やる前から失敗することがわかって興ざめするし)、その他方、自分の成長によってできないことができるようになると、楽しいからです。

 

多数の人間集団については、トータルの収益性を上げないと、やはり失敗が確定します。その目標に対して、もっとも素直で、王道と言えるのがひとりひとり個人の成長を促す、という手段です。

 

地球で生きてる以上、どのように夢のフィクション世界を妄想しても、1人当たり平均の収益性を及第点にまで押し上げなければいけない、という縛りからは逃れられません。よって、「人を奴隷のようにこき使い、”努力が報われない人”を大量に作り出す」ことにより、いわゆる「共食い・ゼロサムゲーム」によってしのごうという人間が生まれます。

 

全ての構成員が「共食い」を始めると、その組織は縮小を続け、最終的に組織の体を成さなくなります。よって、「高い売上を立てられる個人」がメンバーになって、指揮を取り、個々人の収益性を上げていく、という別付け装置が必要になります。

 

この別付け装置が機能していれば、「共食い領域を持つ、安定した人間社会の実現」が可能になりますが、今の日本を見ているとエリート層に該当する人たちが、なぜか一緒に共食いに参加している状況です。

 

その理由は何か、というと、そうしないと左遷されたりクビにされたり嫌がらせをされたりするからですね。

 

で、それを指示している「何か」は、「共食い領域を持つ、安定した人間社会」を提供する能力はあるんでしょうか?

 

基本的に、「よく正体がわからない相手」とは取引しない方が良いと思います。どんなに魅力的な条件を提示してきても、相手がどんなに強そうでも、です。

 

人間を「未熟なまま」集団で走らせるのは、ペットに首輪を付けるのと似ています。飼い主の想定を超えて遠くに走り去られると困るからです。

 

そういうカラクリがわかっている以上、私がおすすめするのは、「飼い主-ペット」の関係を見直すことです。共食いコースは活路がありません。

 

エリート層に共食いコースを勧めている飼い主は、ペットを殺そうとしています。殺されないようにするためには、ペットではなく、野生の動物として生きることです。

 

飼い主もまた、万能ではありません。飼い主が私たちに遠くに走り去ってほしくないのなら、私たちが自主的に行動範囲を狭くすればいいことです。それは不自由で嫌ですが、とりあえず生き残れるのでOKです。

 

「人間社会は共食い世界を包括する」は許容できますが、丸ごと共食いに走って死ぬのは勘弁です。その辺の線引きは、度々命がけになりますが、そこで命を張らないと生きてる意味が揺らぎます。

 

ちなみに、この日記は、あらゆる方向(全方位)に向けて書いています。