数日前に書いた日記で、
「人の精神は、『解釈を起点とした方法論の違い』毎に、区別された層の、2重・3重・・・の重なりによって構成されていると見なすことができる」
という趣旨を書きました。
そして、より根源的な方法論として、
「第三者視点を取り入れない、「『わたし』と『あなた』だけの枠内で、戦争や競争をして、苦しみをしのいでいく・幸せをつかむ、という方法論があり」
「その方法論で苦しみを感じると、必然的に、『強いわたしが弱いあなたを攻撃する』という現象に帰着せざるを得ない』
ということも言えます。
そして、その方法論に軸足を乗せすぎると、「第三者視点が存在する一般的な人間の発想」と互換性がなくなり、「会話が成立しない」というすれちがいが起こる、という解釈がありえます。
私は、常に「第三者視点」を取り入れていますが、
まったく「YOU&I」の発想をしないかというと、全くそうではありません。
つまり、私の中にも、闘争的な発想は存在します。
しかし、私の場合、相手である「あなた」が、人間ではないという特徴があります。
私は、幼少の頃、母親に愛され、幸せな「YOU&I」を知っています。
しかし、同時に、その母親から精神的にボコボコされるという「戦いのYOU&I」を、望まざるをして、経験しました。
そこで、もしも私が「強い者に攻撃されて敗北を味わった」という解釈をしていたならば、私も、一般的な「悪性」を伴い、なんらかの程度の普通の悪人になっていたと思います。
しかし、私の見た景色は、「強者(母親)がわたしを攻撃している」ではなく、
「弱者(母親)が苦しみの中でもがいている→その結果わたしを攻撃している」絵図でした。
つまり、私は「圧倒的な攻撃力を行使してくる」母親のことを「ザコだな」と思ったということです。
同時に、「このザコは自分にとって大事な人だから、攻撃しないようにしよう」とも思いました。
それによって、「一般的な人間同士の愛や憎しみの入り混ざる深い関係」を構築することを経験せずに、
「自分と自然界」の「YOU&I」に、シフトしていった(これはある意味「逃避」とも解釈できる)、ということです。
なので、一般的な人たちは、「人間同士、深い関係性を楽しむことができて」うらやましいな、とも思います。
結局、「あなたとわたしの関係」において、ある種の攻撃性があったとしても、
「手加減がある、関係がぶっ壊れない程度のバランス感覚があれば」
問題はない、どころか、それが楽しい(そしてゲームがシンプルなので簡単でラク)、ってことだと思います。
私にも大切なパートナーがいますので、
向き合う際には、「第三者視点」を消去して、適度に突っつき、小競り合いしながら、深い関係を築いて行けたらいいな、と思いました。
41歳(今月で42歳)にして、私はこのレベルなんですよ。人間関係に関しては。
なので人間性としては私は「へぼい」のですが、
私は大事なことを知っています。それは・・・
「たとえ現状、自分が圧倒的非力で、未熟であったとしても」
「方向性がよりよいものであるならば」
「胸を張って、謙虚さをずっと抱いて、歩むことはできる」
ということです。
がんばります。
おわり