善と悪の分岐点

善と悪の分岐点ということで、二項対立になっていますが、

 

私自身は、何かを慈しむ善の面もあるし、破壊しがちな悪の面もあります。

 

このように、それぞれの側面が混じっている感じですね。

 

で、この2要素がどのような分岐を経てそうなっているのか考えてみると、

 

結論は、「解釈」なんだと思いました。

 

例えば、自分がロブスターだった場合、

 

海で人間に獲られて、キッチンで料理されて、喰われるわけですよね。

 

その「喰われる」をどのように解釈するか、によって善悪に分岐すると思います。

 

<善になる解釈>

捕食による生態系のエネルギー循環の一環だな(負けじゃない)

 

<悪になる解釈>

人間に攻撃されて塵のように踏みにじられたな(負けだ)

 

という感じだと思います。

 

言い換えると、

 

善は、あらゆる現象を、合理性の枠内に納めていくけど、

 

悪は、あらゆる現象を、他責の枠内に納めていく。

 

合理性とは「包括的」であって、自分の内側も外側も貫くものですが、

 

他責とは、「対面的」で、わたしとあなたの関係にあるものです。

 

つまり、善悪の分岐は「(解釈を起点とする)方法論の違い」によって分岐する。

 

よって、善性の作り方、悪性の作り方それぞれのレシピは、

 

<善性の作り方>

「正しさは世界の法則によって成り立っているんだ」という認識を頭にたたき込む

 

<悪性の作り方>

「自分が劣っているから相手から攻撃を受けてるんだ」という認識をたたき込む

 

ってことになりますね。

 

この認識の違いを起点として、

 

「じゃあその認識を持った上で、どう生き抜いていくか」の発展を見ると、

 

善人は「より合理性を積極的に追求していこう」という志向になり、

 

悪人は「より劣っている相手を積極的に攻撃しよう」という志向になるのだろうと思います。

 

また別の言い方をすると、身の回りに起きる現象を、

 

(善)「ありのままで在る」として捉えるか、

 

それとも(悪)「競争や戦い」だと捉えるか、ということだと思います。

 

人の精神構造は、「多層的な球体」のようなもので、

 

わたしの精神構造で言うと、

 

一番外側の層は「ありのまま」と捉えているけれど、その内側には「競争や戦い」が包まれている、という構造です。

 

なのでぱっと見、「善人」に見えていると思います。

 

なんか攻撃的な面もあるけど、結局、自然と同調している。

 

他方、私の父を見ると、

 

一番外側の層は「競争や戦い」だけど、その内側には「ありのまま」が包まれているように見えます。

 

なんかなあなあで甘い面もあるけど、結局、競争している。

 

2層構造とは限らず、おそらく企業の経営者とか、なんか偉い立場の人は、もっと多層的な精神構造をしていると思います。

 

私がこの表現でもっとも言いたいことは、

 

✖:「善悪」の層で、人間の精神構造が説明できる

 

ではなく、

 

○:解釈を起点とした「方法論のベクトルの違い」毎に、精神構造の層が区別されているように見ることができる、ということです。

 

善悪モデルというのは、ここの文脈では、精神の多層性をシンプルに・極端に表現するための手段というわけです。

 

悪性の部分が、なかなか矯正されないのは、

 

悪性の起点が「YOU&I」の世界であるからです。

 

善性を持つ人が、「いや、そんなに攻撃的にならなくても、『世界ってこうだからさ』、そうしなくても実は大丈夫なんだよ」

 

と「第三者視点で」説明しても、

 

悪性を持つ人は「こいつをどうやって負けさせてやろうか。絶対にオレが勝つ」

 

という「相手との勝負」の世界観だと思うので、

 

話がかみ合わない、ということが起こりえます。

 

というわけなので、例えば悪性の強いプーチンとの関わり方は、

 

「第三者視点を導入して」「世界のパワーバランスの観点でいうと、ウクライナ戦争はあなた(ロシア)にとっても損だよ」と説明しても、

 

プーチンは「ウクライナをどうやって喰ってやろうか。NATOに負けないようにするにはどうすればいいだろうか」

 

としか考えてないので、話が通じない。

 

プーチンと会話をするためには、

 

「どうやってロシアを喰ってやろうか。負かしてやろうか」

 

そういう方法論を用いると、互換性があるってことになり、「会話になる」んです。

 

私はこの辺をあまりはっきり言語化してなかったですけど、

 

ウクライナ戦争開始当初から、「プーチンのロシアとの対峙においては、自らが鏡となって、潰し合いするしかない」と日記に書いていましたが、

 

今考えても、「相手と対峙する」「(言語コミュニケーションだけでなく、殺し合いというボディランゲージ含む)会話をする」

 

という観点に立つと、

 

鏡(ミラー)になる、というのは妥当なやり方だな、と思いました。

 

善性と悪性は「3次元」と「2次元」の対比であるとも言えます。

 

悪性には「第三者視点」が無いですから。

 

パフォーマンス的には、「3次元」の方が圧倒的に精度が高いです。

 

例えば、プレイステーション5の3Dグラフィックと、ファミコンゲームの2Dグラフィックの差に投影することもできます。

 

2次元が3次元に勝てるわけが無い。だから必ず「正義は勝つ」。

 

と言っても、2次元世界と、そういう解釈をすることが「根源的に劣っている」というのは誤りで、

 

根源的・存在論的には、2次元の方が「先輩」なんですよね。

 

「先輩」としては、後から派生して出てきた「3次元」なんて、「若手の後輩」みたいなもんでしょう。

 

プーチンが、21世紀になっても「帝国」やってるのも、この先輩風を吹かしているからだと思います。

 

で、これって、日本で言われる「老害問題」(実際に老人が、害か否かはここでは言及しません)も、似たような構造だろうな、と思います。

 

取りあえず、2次元先輩(私は実は4次元なのですが)を、あんまり舐める意図は私はあまりないので、

 

方法論の違いをよく理解して、できれば言語コミュニケーションレベルで、互換性を持てたらいいなぁと思っています。

 

コミュニケーションの基本は、「自分をよく知り」「相手の立場に立つ」ことだと思います。

 

私は話し下手ですが、こういう構造があるぞ、とだけは言えるので。

 

もしご参考になれば幸いです。

 

おわり