A diary 9/12その②

Amazonで買った電子書籍「はじめての構造主義」という本を読んで勉強してみました。

 

4割くらい読んだのですが、その本ではレヴィ・ストロースという人類学者さんを主に取り上げて、どういった方法論を用いていたのかという話が紹介されていました。

 

世界中の先住民族の、集落間の宝(貝殻など)の交換の文化について、「宝に価値があるから交換する」のではなくて、「交換するから宝に価値がある」といった人間側の需要ではなく、交換システムの方を基底においた考え方で解いていったみたいです。

 

これって、私が安定した経済を実現するために「雇用・供給量を一定水準に維持する」政策が重要だというのと似たような発想ですね。

 

需要があるから商品を売るのではなく、商品を売ること自体に意味があるから売る、という「人間心理から離れた所(システム側)を基礎とする」発想です。

 

なるほど、これが構造主義のやり方かぁと思いました。

 

やっぱり、私は構造を良く見ていただけに、構造主義的なところがあったんですね。

 

でもこの経済安定策って、どうしてこのように考えたかというと「生活費を稼ぐことにほとんど興味がないから、手抜きして最小限の労力で、経済活動を回すこと」を目的とした発想なんですよね。

 

もし、ビジネスの世界でやりがいを持ってがんばろう、と思うのであれば、「人々の需要があって初めて経済がスタートする」という発想の方が、断然面白いと思いますよ。

 

がんばってイノベーション起こして、自社製品でみんなの生活をガラッと良くしたりしたら、賞賛も得られて楽しいでしょう。

 

つまり、私にとっての構造主義は、「怠けて適当にやる対象」に対して使うものです。本気で楽しみたいなら、人間主体、プレイヤー主体、まぁプレイヤーとシステム半々がいいかな?とりあえずシステム側を起点になんかしませんよ。

 

構造主義が出てきた歴史的背景がちょっとよくわからないのですが、西欧列強の植民地支配が壊れて、世界大戦もあったりして、かなり疲弊していたんでしょうね。

 

もうちょっと手抜きしたい、人間のぐちょぐちょした黒い感情を無視したい、と思ったレヴィ・ストロースさんが、理性的にコントロールしたくて、構造主義をもたらしたんじゃないかと推察します。

 

で、ポスト構造主義というのもあるらしいので、この考え方は後に否定されたのでしょう。

 

まぁ、極めて理性的にやるのは心身疲れますしね。人間側の感情主体が良いという結論になったのでしょう。

 

ポスト構造主義っていうのも何か変なやり方だなぁと思いますね。

 

ポスト構造主義の本も、近いうちに読もうと思ってるので内容がよくわかりませんが、私は問いたいです。

 

「その主張をするのに、構造主義を足場にする必要ありますかね?」と。

 

構造主義とは関係ないところで、自立して論を立てればいいだけであって、「構造主義の批判」の手段でしか正当性を確保できないというのは、やってることが謎だなぁと思います。

 

まぁ本を読んでから判断してみよう。私が勘違いしているかもしれません。