A diary 9/12

ネットの文言で、「何を言ったかよりも、誰が言ったかの方が重要」みたいなことを見たことがあります。

 

これは私にはよく意味がわからないのですが、「嫌いな人とか、社会的に卑しいとされている人が言うことはすべて聞く意味が無い」ということなんでしょうか。

 

逆に、「好きな人とか、有力者が言うことは、内容に関わらず聞く意味がある」かな。

 

これってつまり、人間礼賛がベースにあるようですね。

 

「素晴らしい人と考えを一致させて、自分も素晴らしくなろう」とか

 

「有力者は周囲に富を分配する力がある、と信じている」みたいな考え。

 

私は、人間を器として認識して、器も広義の環境だと思っているので、「環境(人間ととしての自分)が素晴らしかろうと、質が悪かろうと、興味が無い」と思っています。

 

自分に対しても本質的に興味がないので、他人に興味もそこまでありません。

 

人間が素晴らしかったら、楽なんですけどね。素晴らしい人間を真似るだけでOKになりますから。

 

でも実際は、「不完全で偏った自分(環境)を把握して」「最適な思想を、TPO毎にチョイスする」というのが正道です。

 

よって、たとえばカタツムリが「過去でもない、未来でもない、今が最前線である。私は常に今と対峙して生きる」と言ったら、「おぉ、カタツムリは良いこと言うなぁ」と私は思います。

 

お笑い芸人のゆってぃが同じ事を言っても、「ゆってぃは良いこと言うなぁ」と思います。

 

この時、私はカタツムリのこともゆってぃのことも見ていなくて、空中に放たれた言葉という、プログラミングコードを見ています。

 

人によっては、私が良いと思う言葉を、同じように良いとは思わないかもしれません。だって、違う人なら(環境としての「自分」が違うなら)、適したプログラミングコードも違うはずなので。

 

もっと言うとプログラミングコードでさえもなくて、「心からの表現」としての言葉が適している場合もあるかもしれません。

 

そう言った言葉には、少しの程度、普遍性はあると思いますが、基本的には個別的だと思います。人それぞれ違った適切な言葉がある。

 

解釈としてはそれが正解に近いと思いますが、「特定の人間の器自体が、そもそも素晴らしいんだよ」という信仰においては、「あの素晴らしい人が言ったことが大事なことだ」という簡易ゲームにできる利点がありますね。

 

ゲームが易しいということは、人気を得るためには重要なことです。特に、多くの人がそのゲームにそもそも情熱が無い場合は。

 

簡易ゲームでも、ハードゲームでも、とりあえず楽しむことが第一かなと思います。

 

私が見ているハードゲームは、ハードすぎて、無理やろ、と思っています。

 

かと言って、簡易ゲームだと解釈するのは、特に勇気がいるのでできません。

 

そういうときは立ち止まって、道ばたの花でも眺めていようと思います。