イデオロギーについて

最近、イーロンマスクさんの辞任アンケートの件で、「反サヨクの人たち」のコメントを沢山見て、「あぁ、こういう人たちって存在するんだ~」と初めて認識しました。

 

何か、激流に身を任せて大量に流れてる生き物の大群みたいで、なるほど、なかなかパワフルだな、と思いました。

 

サヨクと戦う俺たち」同盟ですね。この共感ゾーンが楽しいということでしょう。

 

おそらく、イデオロギーというのは、こういう思考回路のことを指すのだと思います。主義主張そのものに価値を置くのではなく、「特定の価値観(言わば何でもいい)で他者と繋がって、パワフルに現実世界をなぎ倒したい」という欲求が本丸で、それが具現化されたもの。

 

私は以前、ツイッターで「イデオロギーという言葉は妄想の産物で使うことはないだろう」という趣旨のつぶやきをしましたが、この日記で書いてます。

 

こういう「価値観の団塊」を、どうにかして制御しなきゃいかん、という要望に応えて、生まれた言葉がイデオロギーなのかなと思います。

 

ここで、私見を述べると、やはり「イデオロギー」という概念は不要なように思います。

 

というのも、「イデオロギー論」とは、「多くの人の中に、特定の共通価値観の形態を見出して、その名前をラベリングして、『まとめて扱う』」ということです。

 

これが、雑すぎるんですよね。もし本人たちが「俺たちは特定の価値観形態(イデオロギー)で団結してるぜ!」と宣言したとしても、それを制御する側が、その看板(イデオロギー)を使用しなければいけない理由はないし、その塊を個別にではなく、「まとめて処理する」というのは正着ではないと思うからです。

 

人間は一人一人違うし、背景もそれぞれ違うのですから、個別に対処する、というのが正しいことです。

 

人間は共感の動物らしいですから、もしも偏った価値観であっても、みんなでまとまるのは気持ちいいだろうし、それを規制するのもどうかなぁと思います。

 

ある程度、ほうっておけばいいんじゃないかと思いますね。

 

「ウヨク」と「サヨク」の対決ゲームも、やってる人は楽しいのだから邪魔するのはしょうもないと思います。

 

それらを冷静に観察し、制御しようとする者は、その試合会場から1歩引いて、一人一人に対して手当てしていく、というのが良いでしょう。

 

よって、イデオロギー論というのは、社会公益性に照らして、不要だと私は思います。