人からどう思われるかについて

私は若い時から、人からどう思われようと構わないと思っていましたし、今でも比較的そう思っています。

 

ただ、無意味に人を不快にするのはいやだなぁとは思います。私は共感能力が乏しいので、意図せずにしばしば人を不快にさせてしまっているようで、それは心から嫌だし、改善した方がいいなと思っています。

 

でも、過剰な演技をしてまで、人からの評価を得ようとは思いません。

 

若い時にずっと思ってたのは、「他人からの評価に依って、自分の能力は変動しない」という事実です。

 

もしも他人からの評価に比例して、自分が成長するゲームならば、いくらでも他人に良く思われようと気を配ったり媚びたりすると思うのですが、実際はそうでもないので、他人からの目はあんまり自分の人生と関係ない要素だな、と感じていました。

 

他人からの評価を気にすることの問題点は、「意味不明な自分になってしまうから」です。これは私は嫌だなぁと思います。

 

例えば周りが泥棒だらけの社会だったら、「私」は泥棒のスキルを獲得しなければいけないんでしょうか。又は、周りがある宗教を信仰していたら、その宗教の神を愛すことを正義と思い込んだ方がいいんでしょうか。

 

あるいは、周りが泥棒だらけかつ、ゴエモン&えびす丸を神として信仰していたら、やはり信心深い優れた泥棒になる道を行くことが決定されるのでしょうか。

 

「その通りだ!」という人は大人なんでしょうね。私は「我を通すことこそが人生」ぐらいに思っているので、そうとは思いません。これは価値観の相違ですね。

 

周りに自分の評価軸を委託して、その周りが全員間違えてたらどうするんだろう。赤信号みんなで渡れば怖くないタイタニック号みんなで沈めば大惨事の世界です。

 

いきなり、周りを疑う、ことはあまり勧めませんが、私のスタートはバブル崩壊現象を見ての社会不信でしたね。「こいつら全員頭のネジ飛んでんな」という印象を持ちました。

 

疑って終わり、だと不十分で、「じゃあ確かな事ってなんなのさ」という問いに答えられなきゃ嘘だし、自分のなかで確かな事(例えば愛は人を裏切らない、とか)を見出したら、

 

人間社会や自然界で、見られる色々な「模型」の構造を観ていって、自分の中で確かなことと、整合性が取れているかチェックします。

 

現実世界に存在している「模型」は、理に貫かれているので、良い観察対象です。(この世には観察対象がごろごろ転がっているという事実を知っていることは、大きなアドバンテージとなります)

 

その模型と、自分が見出した理を突合して、つじつま合わないな、となったら見直して、「模型への洞察」と「自分の理」をブラッシュアップします。

 

そうやって、評価を他に委託しない、我の強い私のような「小さいかけら」が作れます。

 

このレシピがどの程度、社会において価値があるかはわかりませんが、生き残るという目的のためには、早道になると思います。