「現代思想入門」という本をちこちこ読んでいます。
脱構築三人衆(デリダ・ドゥルーズ・フーコー)の章が終わると、
後者の3人は、脱構築を唱えたわけではありませんが、歴史上、「脱構築的な」動きを見せていたので、紹介されていました。
その中で、フロイトが面白いなと思いました。(ニーチェさんは私にはただの暴れたい人に見える)
精神分析とは、医学の精神医療とは別ジャンルで、
基本的に、「有意識」と「無意識」に分けて、「有意識はコントロールできるけど」「無意識は無秩序ななんかのエネルギーが出てるやつ」みたいな考えをするそうです。
で、精神分析によるセラピーでは、その「有意識」と「無意識」の狭間をリラックスしてフラフラと漂ってみて、
そのよくわからん「無意識」領域についてボンヤリ把握して、自分の「総体」を捉えて、シャキッとするという趣旨らしいです。
例えば、「今自分が感じている恐怖」の元を辿ると、「親との関係における恐怖」と繋がっていて、
「問題はずっと続いてたんだな(ナイフがずっと心に刺さったままの状態だったんだな)」という解釈をするのが、精神分析のメソッドです。
なるほど!私、精神分析かなりやってたぞ、と思いました。
私はフロイトさんのことを今もほとんど知りませんが、似たような畑だったんだな、と親近感がわきました。
フロイトさんの生きていた時代は、「有意識」と「無意識」の区別の概念が一般に無かったそうです。
現代は、普通に「今の行動を無意識にやっちゃったな」とか言う人は多いと思いますが、
それが無くて、「『自分』は常に制御における主導権を持っている」と思い込んでる人だらけの時代があったということです。
私は自分の制御の主導権を理性に持たせて、感情サイドの動きは意志決定の仕事には介入させないスタイルで生きてきました。
今もそうですね、重要な意志決定は、理性だけを使います。
ただ、感情サイドの動きを厳しく規制する必要性も感じてないので、感情は「野放し」「泳がせ」をしています。
精神分析は、できた方が良いと思います。
なぜかというと、数日前に「キャンセルカルチャー」の日記でも書きましたが、
「本当は○○が原因で怒りや焦りがあるのに」
「○○とは別の△△が原因だと誤認して、△△を攻撃する」
みたいな、八つ当たり攻撃が発生するからです。
私は、少年時代、この八つ当たりを死にかけるほどの強度と頻度で母親から受けてきたので、
「それはやりたくないな、母親のようにはならないようにしよう」と、自然に思ったんですね、
それがトリガーってわけじゃないですけど、
情報処理の能力を極めるっていう目標がありますから
「自分の有意識のことがわからないで、下手な意志決定するようでは話にならんな」
という判断があって、精神分析(自分の精神分析)をやりまくったんですね。
「内観」って言うやつです。
で、その精神分析は、他人にも及んで、日記でも「彼はこういう精神構造で、ああゆう行動をしたんだろう」とかいう予想を飛ばしていますが、
結局、他人がどうあるかなんて、わからないです。確かめようが無い。
つまり、どこまでいっても「予想」でしかない。
それでどうするかというと、「可能性のある全パターン列挙」です。
分析対象の相手が実際にどうであるかはわからないから、とりあえずありうるモデルの可能性すべて挙げるんです。
そのため、私は「人格コレクター」みたいな状態になっています。
全部挙げた上で、その中で、理に照らして最も「ありそう」な可能性はこうだろう、という計算はできます。
それを研ぎ澄ませると、「どこまでいっても予想でしかないアウトプット」が、「高確率でほぼ事実と等しくなる」という、実戦レベルで使用できる水準の「良い道具」になります。
どこまでいっても予想でしかない、というよりも、
そもそも人の人格の構造を「○○が原因で、○○になった」とかいう私(や一般的な人)の有意識の見方そのものが、「ほったて小屋」くらいの目の荒い大雑把なザルですから、
まぁ、自分のことも、他人のことも、
「わかるわけがない(雑な見方しかしていない&対象を見ることもできていない)」
というのが真実です。
なので、「無駄なことやってるな」「そんなこと考えずに直感的に生きれば良いじゃん」っていう意見もあると思いますが、
この努力によって、「八つ当たりで無関係の人を傷つけたり」する機会が実際に減ると思うので、私にとっては意味があります。
世の中には「私のこの厳しさは子供の教育としてためになっている」と正当化しつつ、
自分の不安とか怒りとか、負の感情を思いっきり幼子に叩きつけるような母親っているんですよ。怖いですね。
だから、まぁ、そういう目に遭ってない人は、八つ当たりするにしても加減しているんでしょう。
人生いろいろですね。
みんな同じ環境なら、話が通じやすくなるんですけどね。
おわり