今、新たな「精神の安定術」を見つけたので周知します。
これは、すでに多くの人が実践しているのかもしれないけど、私はやっていなかったことです。
なので、全然新しくはないかもしれませんが、「そういうポイント・観点で、精神状態が変わりうるんだな」ということを知っていて損はないと思います。
<精神の安定術・やり方>
①人や物、存在感のある対象に意識を向けないようにする
②存在の隙間、余白の「無」から何かを読み解くように意識を向ける
おわり
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これだけです。
手順を圧縮して「無に対して意識を向ける」だけ書いてもよかったです。
もし今リビングにいるなら、机とか、テレビとか、壁とか、目に見えて、存在していることが確認できるような対象から、意図的に意識を外すということです。
存在と存在の隙間にある、「無」に対してアクセスを試みて、そこから小さな情報の欠片を拾い集めるように、意識を集中すると、気が楽になります。
やってみて、実際に「無」の中に何かがあると探知できたとしたら、ノーベル賞をあげたいですが、おそらく無理です。そう「できないように」作られているから。
目標は、「無の中の何か」ではなく、意識を無に向けることによって、精神が安定しやすいですよ、ということです。
私は洞察が好きというかやり込んでいたので、ついつい存在する対象に注意を向けていたんですが、逆のことをやると、けっこう楽でした。
あと、人間の知覚能力のへぼさを懸念して、「どうにかならんか」と無の中にアンテナを張って、何か受信できないものかと試したところ、期せずして精神安定が楽にできたといういきさつで発見しました。
例えば、怒ってばかりのパワハラ上司に嫌気がさしたら、パワハラ上司から意識を外して、オフィス空間の「無」に意識を向けてみましょう。まるでそこ(無)に何かが存在しているように解釈すると、余裕が生まれます。
パワハラ上司という存在に気を留める必要はないのです。なぜなら、本来ならば「無」の中に、膨大なエネルギー・存在があるのに関わらず、あなたにはそれを知覚できないような作りになっているだけだからです。
人間のへぼさNo1は、「知覚の範囲が狭すぎ(ほとんどの側面の情報がシャットダウンされすぎ)」、No.2は「自分を客観的に見られなさすぎ」ですね。
情報をシャットダウンされ、自分を客観的に観察もできない、というのは公平な目でみると、かなりの拘束具合です。
せめてどっちかくれないと、まともに戦えないよ、と私は思います。
あまりにも不利な条件なので、「無」に何かがあるんじゃないか、何かを受信できるんじゃないか、とか考える人(私)が出てきます。
無なんて、あるわけないので、受信できて当たり前なはずなんですが、実際にはできないんですよね。
とりあえず精神安定術は、確認できました。
逆に言うと、自分を適切に追い込みたいのであれば、「存在しているもの、大きな存在に対して、意識を強く向けること」これをやると、自分の存在が試されているような、強いプレッシャーを作り出せると思います。
こっちはあまり需要はなさそうですが、根性は付きますね。