A diary 9/18

負荷をかけると、わかりやすくなる。

 

どういうことかというと、単純なことで、例えば「おしゃれをしたい気持ち」と「ご飯を食べたい気持ち」が両立しているとする。

 

負荷をかけると、余裕が無くなる。

 

すると「おしゃれはいいからとにかく今は飯が優先だ」となる。

 

「おしゃれをしたい」と「ご飯を食べたい」が競争をして、どちらか一方が優先される。

 

するとわかる「あぁ、この人は『ご飯を食べたい人』なんだ」と。

 

余裕があると「おしゃれもしたい人」になるけど、負荷をかけると「ご飯を食べたい人」になる。

 

それらを四捨五入すると、この人は「ご飯を食べたい人」確定になる。

 

「いや、通常時はおしゃれもしたい人なんだよ、本当はそういう人なんだ」と言っても、なかなか通用しない。

 

その特別な「通常時」よりも、オールウェイズで「あんたは何?」というのがおそらく焦点になっている。

 

ちょっと負荷をかけたら、すぐ態度が変わる、極端な行動をするようになる、となると、かなり大きな負荷をかけたら、もっと極端な行動を取るだろう。

 

そうなると、あまり大きな責任をその人に負わせるわけにはいかないだろう。

 

その極端な、振れ幅の大きい行動に、全体がひっぱられてしまうから。

 

ということなので、もしも責任を負えるような資格を得たいと望むならば、負荷の過多に関わらず、「同じ人、同じ態度」でいることが必要条件になってくる。

 

私は適度な大きさの責任なら負ってもいいけど、最近、「上に祭り上げてコントロールする」ムーブに翻弄されたことがあるので、できれば雑草、雑魚として気楽にテクテク歩くのが好きです。