娯楽性日記 8/5

ヤフーニュースをざっと見ていたら認知症についての記事がありました。

 

その記事の内容は、ちょっと画面遷移させてしまったので、読んでいないのですが、厚生労働省のサイトを見て、「認知症の人と接するときの心がまえ」という要約されたページを読みました。

 

ポイントは、

・「あの人は認知症の人」と人間関係に線を引くのではなく、「身近な人が(認知症という)病気になっただけ」と解釈した方がいい。

認知症の症状に一番最初に気づくのは本人であり、皆その自覚はある。

・「程度の大きい物忘れ」という症状は、本人にとって、とても不安を伴うもの。その不安や悲しみによって、現実を受け入れきれずに、医者にかかることを頑なに拒むケースがある。

・身体障害のある人は、杖などの補助具を用いて生活を補うこともできるが、認知症にかかった場合は、それが不可能な場合が多い(例えばメモなどの防備録も無効になる)

認知症にかかった人に対しては、本人の心情をくみ取り、できるだけ自然で目立たない形で、周囲の人間がサポートするのが好ましい。

 

こんな感じでしたね。

 

私の父も、脳の働きが弱くなってきたので、もしかしたら将来認知症になるかもしれません。

 

父は、食道が一部狭く、「食べ物をかきこむように食べると、詰まりを起こして嘔吐してしまう」ような症状が以前数回ありました。父の意識では「若いときから、仕事の忙しさに追われ、早食いしてきたので、自分はずっと同じようにそれができるはずだし、そうしたい」というものがあったようです。

 

端的に言うと、「老いという自分の変化、その現実を、受け入れたくない」気持ちですね。

 

そういう気持ちと、近い気持ちを、認知症の人も持つのでしょう。

 

「今まで、できたことができなくなる、急激な衰えの変化、それが怖い、自分はどうなってしまうのか、周りに迷惑かけるのではないか、情けないし不安でしょうがない。」

 

のような感情。

 

私も最近、干渉を受け、脳の思考能力(ちょっと先の予定を立てて実行する能力とか)が大幅にダウンし、「これはできないことが多いな」、と危機感はありました。

 

ただ、現実は私の安全願望とかと関係なく降りかかりえるものだと知っているので、腹をくくって、じゃあできないなら、小さい活動範囲で、あがくしかないな、と判断しました。

 

その時、父親に「今まで普通にできてたことが、できなくなった」と伝えたのですが、それ自体はけっこう嫌でしたね。自分の能力低下を認めたくない、という気持ちは私にもありました。

 

厚生労働省のサイトを見て、意外だったのは、「認知症にかかった人は、自分が過度にもの忘れする状態だと自覚がある」という点です。

 

この自覚があることを、ありのままに、家族に伝えられたら、かなり家族は楽になりますね。

 

「オレはもう、記憶がちゃんとできない。覚えられない。迷惑をかけるかもしれないけど、助けてほしい」

 

と、あらかじめ伝えておけば、

 

例えば「すでにご飯を食べたのに、またご飯を要求している場合」でも、

 

「おじいちゃん、さっきご飯食べたよ。それを忘れちゃったみたいだね」

 

と伝えれば

 

「あっそうなのか。わかった、ワシは食べたんだな。じゃあご飯はいいや」

 

で、この件はクリアですね。

 

これができるなら、「自分が忘れがちであることを知っているおじいちゃん」を、「家族がサポートする」のは十分可能だと思います。

 

おじいちゃんを客観的に見ている「メタおじいちゃん」を窓口にすれば、的確な情報伝達が可能になりますから。

 

ただ、「メタおじいちゃん」の窓口が無い場合は、これは接し方に細心の注意を払う、真剣勝負になりますね。根気も必要になるでしょう。

 

まぁ、人ひとりの人生の終末期を支える、というのは、そもそも簡単なことじゃないという認識を持った方がいいですね。

 

私だったら、常に父親をおんぶして歩くくらいの、それぐらいの覚悟がないと、簡単にへこたれてしまうかもしれません。

 

そのためには、自分自身、ある程度「生活力」の点で、強くなったほうがいいですね。